色彩心理の図式「カラーローズ」:ピンクの心理
「オーラソーマ」の「カラーローズ」をちょっと部外者的な立場から眺めて、自由な連想を試みる随想シリーズです。^^;
オーラソーマのカラーローズを“全人間心理のカラーインデックス”に見立てて、その内部的なダイナミクスを連想して楽しんでいます。。
ちょっと理屈っぽいですが、常識だけでお付き合いいただければ、案外、面白がっていただけるかもしれません。
これまで「カラーローズ」を人間心理の“元型”、“酵母の種”の誕生の物語として眺めててきました。
そしてカラーローズの“色相環”12方位(色)を一周しました。
つまり、人間心理の“元型”の誕生をこんなふうに見てきたわけです。
12時:すべての創造世界を潜象として包含する“根源色”「ブルー」
4時:個別を意図して顕現世界(二元性)創造の端緒となった「イエロー」
8時:“永遠の変化”を起動して現象世界の創造を実現した「レッド」
2時:個別としてはじめて見晴らしと周囲との調和を求めた「グリーン」
10時:個別としての立場に馴染みきれず超越を求めた「ヴァイオレット」
6時:多様性の謳歌という新たな価値創出による飛躍を求めた「オレンジ」
7時:“無償の愛”で顕現世界の継続・維持に献身する「コーラル」
5時:あくまでも依存を嫌い、存在の根拠を自らの中に求めた「ゴールド」
3時:全体との調和のなかに個を確立しようとした「オリーブグリーン」
1時:子供のように直感を信頼し、その伝達を楽観した「ターコイズ」
11時:明晰さと果断のゆえに世界での役割に悩んだ「ロイヤルブルー」
9時:すべての意図の妥当性が見えて無条件であることを望んだ「マジェンタ」
さて次は「ピンク」というところで、“光と闇”の表現の明示化を試みざるをえなくなり“カラーローズの卵”を発明したのでした。
たしかにこの“カラーローズの卵”なら、ポジティブな人間心理とネガティブな人間心理も位置を区別して表現できます。
というのは、“ネガティブな心理”と言っても、それは単に元の“ポジティブな意図”の迷子になった姿にすぎなかったからです。
これまで見てきたように、あらゆる「人間心理」(つまり「色の心理」)は、どれもとても真っ当な意図と願い(=欲望)のゆえに誕生しています。
しかし、それらのどの意図(欲望)も、じつは顕現世界で多様性を個別に体験したいとう、「イエロー」の意図(DNA)を引き継いでいます。
すべては、現象世界のなかで個々の多様性を自分で体験したいという、とても無邪気な「イエロー」の願いから始まった心理劇です。
でも“現象世界で多様性を個別に体験する”ということには、とても危険な、いわば“子どもの火遊び”のような側面があります。
まず、現象するには「識別」が、またそのためには「変化」が不可欠です。
完璧に不動の透明の鏡のようであっては、存在を認識できないからです。
「生命」を“海”に喩えるなら、それが目に見える世界として現れるためには、いわば表面が“波立た”なければなりません。
むろん、個々の“波”はたんなる一時的な“現れ”にすぎません。
波の“頂点”と“底辺”とは、(識別に必要な)変化の振幅を定義するための単なる二極にすぎません。
“頂点の波(たとえば、勝者)”と“底辺の波(たとえば、敗者)”というような存在が個別にいるわけではありません。
一瞬前に押し上げられて“絶頂”となった水は、次の瞬間には“奈落の底”に落ちなければならないわけです。
でも「イエロー」は、その“勝者”を体験してみたかったんですよねぇ。
しかし“勝者”となりたかった「イエロー」は、そのために“敗者”となることも受け容れなければなりませんでした。
とはいえ、子どもが遊具の「シーソー」を楽しめるのはごくわずかの間です。
「シーソー」では、高く上がるためには、次に低く降りなければならないないことがあまりにも“目に見えている”からです。
それではあんまりチャチな遊びで、ほんとうの“勝者”のような気がしない。^^;
では、ほんとうの“勝者”、本当の“成功”を、現象世界で体験(演出)するにはどうしたらいいのか? (-_-;)
ここでどうしても欲しくなるのが……「分離の幻想」という劇薬です。(>_<)
おそらく、無邪気な「イエロー」にそこまでのつもりはなかったでしょう。
でも、顕現のなかで“自分で体験する”には、絶えざる変化のなかに「個」を実現し、それが自分の体験だと「識別」できる必要があります。
その至難とも言える「イエロー」の願いを我が身に引き受け、自ら実現したのが「レッド」の“自己愛”でした。
おそらく、永遠の変化というあやかしに満ちた生命世界を始動した「レッド」は、秘かにその“劇薬”に手を出さなければならなかったでしょう。
生きているのは……実際は、ただひとつの<永遠の生命>です。
それだけが永遠に存在する者、そして唯一存在する者です。
<生命>とも……<永遠>とも……<今>とも言うかもしれません。
それは、現前するすべてに命を吹き込む<気づきの光>とも言えるでしょう。
唯一それだけが……永遠に生きているものです。
しかし「レッド」が意図した、
「永遠に、わたしは生きる」
とは、“永遠の変化”である現象世界の中で“生きる”ことでした。
現象世界の中で、形あるものとして、“生きる”ことでした。
しかし、生きている者が<ひとつ>でしかないことが最初から自明に見えていたのでは、現れのなかに「個別」を実現することはできません。
現象世界のなかで「個」になるには、じつは生きているものが<ひとつ>であることが……大なり小なり“見えなくなる”必要があるわけです。
「レッド」の“自己愛”とは“自分の形(身体)”を持ちながら生きることですが、それは現れのなかに“自分以外”を創造することでもありました。
ところで、“自分の形(身体)”をもっただけでは、じつは個別を体験することはできません。
体験という“文脈”を紡ぐことができないからです。
たとえば、主人公の部分だけが映っていて、まわりが全部白抜きになった映画を想像してみてください。
こんな映画を見て感動することはできませんよね。(^_-)
主人公の形(身体)だけでは、ドラマ(体験)を作れないのです。
周囲の環境や、他人が必要で、それがなければ体験の文脈を紡ぎ出せません。
(このことは、周囲の環境や他人が存在しなければ、じつは“自分”そのものすら存在できないことを暗示しているのですが……。)
“自分で個別の体験したい”と言っても、それはやはり、周囲の環境や他人が存在しなければ不可能なことだったのです。
誰かが“勝者”になるためには必ず“敗者”が必要であり、誰かがスポットライトを浴びるためには、かならずその背景に“注目する観客が必要なのです。
もし、この“勝者”と“敗者”、“スター”と“観客”が同一人物であることが自明だったら、はたして、そのドラマ(体験)に感動することができるでしょうか?
もし、そのような世界があったとしたら、それはまったく別の世界になるでしょう。
私たちが知る顕現世界のなかでは“自分”を体験するには“他人”が必要なのです。
“他人”とは“自分”ではない存在、“自分”とは分離した存在の意味です。
実際には、生命世界のなかに“分離した存在”はありえないのに……です。
世界とは、そのような虚偽と矛盾に満ちた世界です。
“自分で個別を体験したい”という「イエロー」の願いには、もともとそのような矛盾と虚偽が潜んでいたわけです。
しかし、たとえ自己矛盾していようとも、少なくとも、われわれ人間にとって現象世界は起動しています。
そこで、“自分”ではない“他人”を現出させるにはどうしたらいいか?
相手が“自分”であることが、わからないようにするしか方法はありません。
それを実現する手段が、<気づきの光>を落とすという方法です。
物理次元とはそのような世界、ある意味で物質とは“思いの不良導体”なのです。
ですから、言い方によっては、人間は濃密な“物理次元”で生きることに挑戦した天使のようなものだと言えるかもしれません。
赤ん坊は自分の思いがすぐに実現しないと、むずかって泣いたり、癇癪を興したりするものです。
もしかしたら、“自分の思いがただちに実現しない”ということに、慣れていないのかもしれませんね。(^_-)
こういう世界のなかに、いわば<気づきの光>を唯一の命綱にして、天使たちが降りてくるところを想像してみてください。
しかも、その上さらに、<気づきの光>ひとつが自分の命綱であることさえ、忘れるというのが“ゲームの規則”なのです。
ある種の微かな“内的直感”があるだけです。
そのほかはすべて、降りてきた世界で、まわりから教えられるままに蓄積した知識(選択肢)を使って、進むべき道を決断しなければなりません。
個々の天使がどれほどの疑心暗鬼に襲われるか想像にあまるものがあります。
ここでは誰もが、自分の<気づきの光>を使おうとするよりは、まわりの人たちから学び、それを真似しようとするのです。
しかし、誰もがそうしたらいったいどういうことになるか?
その世界は、自前の光を使っている人たちのほんの微かな<気づきの光>でしか照らされていない世界になるでしょうね。(>_<)
だって、誰もが自分が持ってきた命綱である自前の<気づきの光>を、充分には使おうとしないわけですから……。
お釈迦様は、このことを「自燈明」という言葉で示されたわけですよね。
<気づきの光>を使えば、“自分”と“他人”とは単なる形態上の区別であり、そこに流れている命が<ひとつのもの>であることはわかります。
はじめてテレビで暴力場面を見た幼児は、かならず泣きます。
目の前で暴力を受けている人と自分の区別がまだ存在しないからです。
しかしその子も、やがては身体の輪郭を自他の明確な区別として識別することをマスターし、自他の区別を使い分けられるようになります。
そしてやがては、確固とした自他の区別のある世界を受け容れるわけです。
しかし、そういう世界に、ときとして、圧倒的な<気づきの光>を持って降りてくる存在たちがあります。
その人には、他の人たちから見ても、何とは明確にわからないまでも、たしかに“何か”違っているところがあるのが感じられます。
ひと言で言うなら、その人は他人の真似をしようとはしていないのです。
そして、自前の<気づきの光>をつかって状況を照らし出し、自らの進む道を決断しているようなのです。
彼の<気づきの光>が照らし出しているものとは何でしょうか?
それは……、
<すべてはひとつです>
という<気づきの光>が自明に見ている真実です。
物理次元に降りてきた天使たち、そして自前の<気づきの光>を使うことに臆した天使たちにとって……見えなくなっていたことはそれです。
この<すべてはひとつです>という真実が見えなくなる程度は、広大に広がっています。
「人間心理」のインデックスである“カラーローズの卵”が、内部的に明らかな明度差の段階を包含しているのはそのことの反映です。
<すべてはひとつです>
この物理次元に降りて、しかもこれがつねに見えている“光量”を維持できる方々のことを「マスター」と言うのかもしれませんね。
「マスター」とは、<気づきの光>の投光レンズが自己同化の埃で汚れていない方々なのかもしれません。
<気づきの光>も出力全開、本来の“光量”で輝き出せるのでしょう。
その場合は、われわれ人間には重要な区切りと見えていた身体の輪郭はあまり意味を持たず、もしかしたら境目すらはっきりしなくなるのかもしれません。
このようなマスターたちの世界への入り口、「カラーローズ」上で二分の一の半径の同心円状にあるような点、“カラーローズの卵”のなかでは、天頂点の近くにあるような点の代表格が「ピンク」なのだと思います。
「マスター」たちの世界では、個別のエネルギーは識別はできるでしょうが、境目ははっきりしたものではないのだろうと思います。
マスターたちが、一定程度以上近づけば、それぞれの身体は互いに重なり合ってしまうのではないでしょうか。
だって、
<すべてはひとつです>
ということが、つねに自明で見えているわけですから……。
「ピンク」がそういう世界への代表的入り口なのだとしたら「ピンクの心理」を次のように表現してみるのはどうでしょうか。
「あなたを愛します、あなたは私だから」
「レッド」の“自己愛”
「永遠に、わたしは生きる」
も、ある意味で無条件のものでしたが、ただ“わたし”の意味がとても制限されていたのかもしれません。
「ピンク」には「レッド」の“自己愛”に<気づきの光>が加わっています。
<すべてはひとつです>
ということが、自明で見えているわけですから。
「あなたを愛します、あなたは私だから」
全体への視界
独存の平和
明晰な視界 (ブルー) 直感の信頼
自尊と決断 伝達への楽観
(ロイヤルブルー) (ターコイズ)
生存への違和 → 見晴しへの願望
生超越への希求 ← 調和と協調
(ヴァイオレット) (グリーン)
生命の全肯定 協調への意志
囚われの放棄 ・ 許容と配慮
(マジェンタ) 条件の愛 (オリーブグリーン)
生命への熱情 (ピンク) → 個別への意志
生欲望と安定 ← 自尊と不安
(レッド) (イエロー)
無償の愛 自立への希求
報われぬ愛 智慧と恐れ
(コーラル) 創造への賛歌 (ゴールド)
帰属と献身
(オレンジ)
……。
また機会があったら、このあとどんなダイナミクスで三次色が生まれ、それらがどのような人間心理を代表するのか、そんな連想を楽しませていただくかもしれません。
いつもお断りしているとおり、これは「オーラソーマ」で認定された見解ではなく、「オーラソーマ」がゲーテの色彩論から引き継いだ「カラーローズ」という素晴らしいツールに触発された、まったく自由な立場からの連想です。
お付き合いいただき、ありがとうございました。<(_ _)>
pari 記(初出『オーラソーマ通信』の記事から編集)