カラーローズ――イエローの心理

前回は、「光」が森羅万象として目に見える世界に姿を現してくるときに、最初ににじみ出してくる色が「ブルー」なのだというお話をしました。

「時間的風景に喩えるなら、夜の闇がどこかに微かな光を感じ始めて、目覚めの気配を感じさせるあの『たはかれどき』のようなものかもしれません」と。


そう思うと、この「ブルー」のなかに森羅万象として姿を現すすべての可能性が包摂されているんだという話も、納得できるような気がします。

この「ブルー」のなかに、森羅万象が姿を現す前の状態の名残が、メッセージとして引き継がれていると言われれば、なんとなく信じられるような気もします。

いわばそれは、現れの世界に引き継がれた、目に見えない世界からのメッセージのようなものかもしれません。

「いつでも帰ってきていいんだよ……」と、目に見えない平安の世界が差しのべてくれている“道しるべ”みたいなものでしょうか。

「光」のなかの“何か”が、目に見えない世界の平安に微睡(まどろみ)み続けることには飽きたらず、目に見える世界に憧れたことだけは確かなようです。

どうしても、目に見える世界に、何者かとして現れたかった。単なる可能性としてとどまっているだけでは我慢できなかったのです。

自分がどれほど偉大で、勇壮で、美しくて、素晴らしいかを、自分の目で見て、自分で嘆賞し、自分で経験したかったのです。

自分が自分であることを、あらゆるものに対して、全存在に対して、すべてのすべてに対して表明したかった、体験したかった。

自分の自分らしさを、ありとあらゆる存在たちに知ってもらいたかったのです。

夜の闇ともいえる目に見えない世界から姿を現し、どうしても暗闇の舞台のなかの一点である自分にスポットライトを浴びたかったのでしょうね。

「たはかれどき」の「ブルー」から、いま一段の個別を識別するために明け初める空の色が「イエロー」です。

蒼黒(あおぐろ)く静まる森羅万象に、一点を目立たせるために当てられたスポットライトの色が「イエロー」だったのでしょう。

「色の心理」のテンプレート「カラーローズ」に、「ブルー」に次いで二番目に差し込む光線は「イエロー」です。


               神の視界
               独存の平和
               (ブルー)

                    \\

                     個別への意志
                     自尊と不安
                     (イエロー)

どうしても目に見えないままの平安の中にはとどまれなかった“憧れ”です。

「自分」「自分」として、ひとりの「個」として表現したい、嘆賞したい、経験したいという憧れ……。
うす青い薄明のなかに微睡んだままではいられず、明確な姿を表したかった憧れです。


「個別」としてちゃんと識別されたい、認知されたい、認められたい、という叫びが「イエロー」なのだとしたら……そのメッセージは?

……それを、

           「見て、わたしは美しい!」

という一言に代表させても、そう不自然ではないでしょう。

このとき、なにもこの“美しい”という言葉にこだわる必要はありません。

それは、“素晴らしい”でも、“神々しい”でも、“偉大です”でも、あるいは、“勇壮です”でも、“善良です”でも、どんな形容の言葉でもかまわないでしょう。

いや、そう言ってさえ、まだ語弊があります。

それでは、まるでポジティヴな形容語だけしか望んでいないことになってしまいます。^^;

それでは全体のなかのネガティヴな形容語は、出てこられなくなります。

現象世界という二元性の世界に姿を現すことは、“醜い”と対の“美しい”を、“悪い”と対の“良い”をまとわずには不可能なのですから。

とはいえ、現象世界への憧れを歌い上げる「イエロー」の心理を

       「見て、わたしはなんと醜いのでしょう!」

という言葉に代表させるのもちょっと変ですよね。 (^_-)

ですから、そこは素直に、「色の心理」のテンプレート「カラーローズ」に、二番手として差し込んだ光線、「イエロー」の人間心理を、

          「見て、わたしは美しい!」

という言葉で代表させておきましょう。

……でも、“その荘厳な姿をすべてくまなく、そのあらゆる彩りをつぶさに”“表現し、嘆賞し、経験したい”、というこの願い……、じつは、なかなか、ひと言では表現できない深淵を秘めてもいるのです。

そしてその“深淵”は、じつは、最初にも言った「フォーカス」ということと密接に関係します。

つまり、“あらゆる彩りをつぶさに”表現し、嘆賞し、経験するという場合、それは「誰」が表現し、嘆賞し、経験するのでしょうか?

人間心理の世界に最初ににじみ出した「ブルー」の心理を、

               神の視界
               独存の平和
               (ブルー)  

と述べたことは、憶えていらっしゃると思います。

ここで「神の視界」とは、

         「じつは、自分独りしかいない」

ということを知っている“神の目線”のことだ、と言いました。

では、この“神の目線”で、“その荘厳な姿をすべてくまなく、そのあらゆる彩りをつぶさに”“表現し、嘆賞し、経験”できるでものしょうか?

“神の目線”は、「じつは、自分独りしかいない」ことを知っているんですよ。

視界のなかにさえぎるものがいっさい存在しない意識の位置にいるわけです。

すべてが自分であることが明々白々にわかっている状態です。

別の言い方をすると、「神の視界」とは、いっさいの個別性の影が見えない意識の位置のことだと言ってもいいです。

いまさら現象世界を顕現して、個別を体験することがありえない意識の位置、と言ってもいいです。

わかりやすくひと言で言うと、“神の目線”とは見えない世界にとどまっているフォーカスのことなのです。

ということは、どういうことになるのか……。(?_?)

それは、“その荘厳な多様性の姿をすべてくまなく、そのあらゆる彩りをつぶさに”表現し、嘆賞し、経験したいと願うのは“神の目線”ではありえない、ということです。

そのような多様性の姿を嘆賞するためには、どうしても一度“神の視界”を失う必要があるのです。

一度“神の視界”を忘れて、“あらゆる彩りをつぶさに”表現し、嘆賞し、経験したいと願う個々のフォーカスになりきる、同一化する必要があるのです。

           「見て、わたしは美しい!」

と言って、黄色のスポットライトのなかに飛びだしたのは、“あらゆる彩り”になりきった個々の視点そのものなのです。

こうして、現象世界に「イエロー」の光が明け初めました。

いままで「全体」のなかに微睡んでいたその「一部」が、自らの「個」を主張するためにスポットライトのなかに浮かび上がったのです。

自分を護ってくれている「全体」から一瞬「自分」を切り離して、「全体」のなかでの「個性」を見てほしい、嘆賞してほしい、経験したいと飛び出したのです。

スポットライトを求めて「全体」から飛び出した「個性」は、その「個性」という虚構を維持するために、すぐに、時間の母である「記憶」というさらなる虚構にすがらなければならなくなるでしょう。

「全体」から飛びだした「個性」はなぜ“虚構”なのか、ですか?

それは、「個性」とは、「全体」のなかのスポットライトが当てられた部分でしかありえないのに、あたかもそれが独立して存在できるような幻想のことだからです。

つまり「個性」とは、「全体」の一部にあえてスポットライトを当てることによって、あたかも「全体」から分離してその一部だけが独立して存在できるかのように装う虚偽のことなのです。

たとえば、(あたかも「醜さ」を生み出すことなく)「美しさ」というものが存在いするかのように、あるいは虚構の「敗者」なしに、あたかも「勝者」という分離実体が存在するかのように夢想することです。

これを「分離の幻想」といいます。

スポットライトを浴びる勝者は、暗い影のなかの敗者と観衆の存在なしにはありえません。

どんな「個性」も、それ自体で独立して存在できる実体ではありません。

でも、存在しているのは「全体」だけだ、と言ったのではドラマは成り立ちませんよね。

だから、

           「見て、わたしは美しい!」

と言って、「個」がスポットライトを浴びた瞬間、すでに虚偽の“カラーマジック”は成立していたのです。

でも、現象世界を成立させるためには、この一線はどうしても越えなければなりません。

そして、たとえ虚構ではあっても、いったん「個」の誕生に向けて扉をこじ開けた以上、現象世界の誕生に向けた勢いを止めることはできません。

「個」を維持し証明するために、「記憶」が紡ぎ出され、「記憶」を確かなものとするために、「記憶」のインデックスとして「時間」が立ち上がってくるのは、それこそ“時間の問題”でしょう。^^;

でも、誕生における虚偽を糊塗するために、「個」はいつも不安におののき、いつも存在証明に駆りたてられています。

この【第二の原色「イエロー」】が人間心理の世界で象徴するものを

               個別への意志
               自尊と不安
               (イエロー)

という言葉で表したのは、そのためです。

これで、人間心理の世界を生みだすための大きな二歩目が踏み出されました。

また、この“虚偽”の一歩のために、現象世界にイエロー」の光線が射し込むといつでも、われわれ人間の中の何かが“緊張する”のです。

「ブルー」と「イエロー」の光線が射すことによって、物理次元には鉱物圏と植物圏が展開する素地が生まれたことになります

でも、「ブルー」「イエロー」の二原色だけでは、まだまだ現象世界は安定基盤を得ていません。

……。

次回は【第一の原色ブルー】【第二の原色イエロー】に次いで、現象世界を安定させるためにどんな一歩が踏みだされたのかを眺めてみたいと思います。

あ……。(@_@)

初回にもお断りしましたが、これは「オーラソーマ」で認定された見解というのではありませんからね、そのへん、ご了解を。^^;

お付き合いいただき、ありがとうございました。<(_ _)>

pari 記
(初出『オーラソーマ通信』第163週号(2007,8/15)より編集)

 

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