ソーマ(SOMA)

ソーマ(SOMA)  
「オーラソーマ:光と言葉」より  クシュブ・ドイッチマン
        前回、日本語で「オーラソーマ」と表記される言葉は、英語では「aura-soma」と間にハイフン(「-」)が入ること、つまり「aura」と「soma」の合成語であることが明示されているということをお伝えしました。 そして通常は「aura」は“光”を表し、「soma」は“身体”を表していると。
この記事の筆者クシュブ・ドイッチマンは、古代インドから引き継がれてきた「ヴェーダ文献」のなかに、それとは少し違うニュアンスの「soma」の定義を発見しました。
そこでは「soma」とは、“音”を表すようなのです。
それを知ってドイッチマンさんはこの記事を思い立ったようなのですが、前回はまず前半の「aura」の部分をご紹介しました。
「aura」とは、光が物質化するための“通り道”だということでしたね。
さて今回はいよいよその後半、ドイッチマンさんが「ヴェーダ文献」のなかで発見した「soma」のについての言及です。
いったい、どんなことが書かれていたんでしょう? (?_?)
とはいえ、古代の文献のことですから、現代人の我々が聞いてもそんなに分かりやすいという感じは受けないかもしれませんね。(^^;)
どれどれ……ふーむ。(-_-;)
何やらまるでな“判じ物(なぞなぞ遊び)”みたいですよ……。(^_-)
では、皆さんも、ドイッチマンさんのガイドにしたがって挑戦してみてください。
「オーラソーマ:光と言葉」の後半、「soma」に関する部分をご紹介します。
        ——————————————————————– ソーマ(SOMA)    「リグ・ヴェーダ」は、次のように言います。  「内なる世界の聖なる顕現は、次の三つのカテゴリに識別される。  1.光の顕現  2.音という耳に聞こえる流れの顕現  3.言葉(ソーマ)の顕現」
「……光と音は、献身者に対して異なる形態で顕現し、彼を存在の本来の生命力、すなわち神、聖なるものと結びつける。 それゆえマインドの印象は、無数の力強い神の顕現によって消滅できる。 光と音は願いを叶え、献身者を解放する」
「ソーマには、魂に対する、また瞑想空間の外側にも、さまざまな異なる啓示がある。 光と音は魂に吸収されて、私たちに永遠の生を与える。 それらは魂を取り巻く微細な包みを消滅させる。 2 本の脚(光と音の中の神の出現)は、このように私たちに現れる」
「聖なるものの顕現は、魂にとっての栄養となる。 それらが吸収されるとき、魂はすべての汚れから解放される。 魂とは聖なる全能者の一部であり、たとえそれが背後で変化し、それを認めることができない地点まで暗くなり、覆い隠されるとしても。 魂が純化されたとき、それは本来の聖なる意識を再び獲得し、永遠の生に入る輪廻の輪から上昇する」

この「リグ・ヴェーダ」の引用から、私たちはなにを得ることができるでしょうか? それが意味するのは、光が形体に入るとき、音が形体に入るとき、そのようなものとして言葉が顕現しているということです。 言葉は神から人への、聖なるものから魂への伝達であり、そのようなものとして私たちの中の聖なる部分と、けっして滅びることのない私たちの本質と共鳴します。 かくて、自らに伝達される必要がある、まさにそのものを私たちが吸収してはじめて、オーラソーマシステムはその本来の目的を完了します。 媒体としての液体は情報を、その中のコードを、細胞から細胞へと伝達します。 そのときソーマによって語られたことに、以心伝心の沈黙の聖なる言葉に気づくこと、目覚めること、そしてそれが私たちの内部で働き、それが私たちの実存の深みから立ちのぼり、世界の中で輝くのを許すことは、私たちに任されているのです。
                 『リビング・エナジー』Vol.6(p128-129) ——————————————————————–
なるほど……。(-_-;)
「マインドの印象は、無数の力強い神の顕現によって消滅できる。  光と音は願いを叶え、献身者を解放する」……と語られています。
光と音は、マインドの闇を切り裂く力をもっているのでしょうか。
この「ヴェーダ文献」で触れられている「soma」は、少なくともわれわれ現代人が使う言葉ととはだいぶ違うニュアンスのようですね。
日本にも「言霊」というような言葉がありますが、どうやらこの古代インドの「soma」という言葉は、そんな意味合いの言葉なのかもしれません。
pari 記

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