「闇」と「影」の異なるエネルギー スー・シュタック
今が一年中で一番穏やかな季節でしょうか。
酷熱の太陽もなければ、惨害をもたらす台風もなく、そして厳しい寒さもありません。
まるで、ないないずくしが一番いいみたいですけど。(^^;)
じつは、それがいちばんいいのだ、などとおっしゃっている方もいるかもしれませんね。(^_-)
でもそれもこれも、バランスですよね。
現象世界は二元性の世界ですから、一方への偏りはかならず現れそのものの崩壊をもたらすようになっています。
そこで自然にバランスの修復圧力が働くようになっているのでしょうね。
今回も、前回に続いて「光と闇の内なる錬金術」からご紹介しましょう。
「光」と「闇」の現象世界”のいわば修復圧力に関わるようなお話が聞けるかもしれませんよ。
前回は、「影」は「光」の贈り物だというお話でした。
さて今回は、でも「影」と「闇」とは違うものだというお話です。
「影」は「光」の贈り物だけれど、「暗闇」とは「光」の不在が起こす“幻想”だというお話です。
そのなかでは“秘密、恐れ、萎縮、無知、誤り”といった妄想が生みだされ、あまり長くそこにいると光の世界に戻れなくなるかもしれない、と。
では、スー・シュタックの「光と闇の内なる錬金術」から後半部分をご紹介しましょう。
——————————————————————– おもしろいことに、人の影の中に立ってみると一時的に自分の影はすっかり消えてしまうのがわかります。 影の中に隠れていさえすれば、もう一度思いきって向きあう準備ができるまでは、くりかえし再現、再体験したり、思い出してみることができます。 闇を歓びとともに受け入れることは、時の波に踊ること(コーラルポマンダーの登場はおそらくこの理由からでしょう)や、同じことを微妙に異なるやりかたで経験することだと言えるでしょう。
闇というものは、興味深く重要な経験の豊かさを内包しているけれども、私たちの目的の感覚を失うべきではありません。 ひとつの課題として、闇や影の中での長過ぎる休息に集中すれば、私たちの目が光に慣れにくくなるということが起こります。 新しいことに広がっていく気が起きないようになり、光とのつながりの中でわたしたちが本当は誰なのかという確かな定義を見失う危険性があります。 注意深くいなければ、闇というものが、私たちが全体として本当は誰であるかを明確にしてくれることや、闇が闇そのものから創造されるものではないということを忘れてしまいます。
光の動きを観照する時、影と暗闇が非常に異なるエネルギーであり、混同するべきではないのは明らかなことです。 暗闇はその中で、影の境界線がにじんで、秘密、恐れ、萎縮、無知、誤りの情報がひしめきあっています。 太陽の大いなる力を抱き締めるより、むしろ闇に流れ入る強い衝動は魅力的でさえあります。 他の闇の誘惑的な影の中で眠りに落ち、幻影の暗い迷路に迷いこむのはたやすいことです。 暗闇が影の世界の中で際限なく在る時、個人の闇の真の性質は永遠に見ることができないでしょう。 明らかな暗闇の定義という安全装置がなければ、闇という仮面をつけ、その名のもとに語られていない渾沌を引き起こすのはたやすいことです。 私たち光のワーカーは、そのことに気づいていなければなりません。
闇はその境界線の中に暗闇のエネルギーを含んでおり、おそらくその中に、魂としての私たちが今生必要とする経験のアルケミー(錬金術)を含むよう選択しているのでしょう。 干渉することのない、自分自身で選択するプロセスであると推測します。 ですから、私たち自身の闇の部分は、それぞれの魂が選択した暗闇の部分に、それぞれの光の可能性をとり入れることで、バランスをもたらすことができるよう創造されている乗り物なのでしょう。
オーラソーマとその色と光のギフトは、それぞれの光の可能性とともに、私たちをサポートしてくれています。 また、私たちが内なる保護を慈しみ、愛とともに創造のパワーに息を吹きこむことによって、一人一人の変容に必要な光のレベルを準備する助けとなれるようサポートを与えてくれます。 私たちの闇の真の定義や目的を見るためには、まず最初に自分自身の光の中に大きな一歩を踏み出す勇気を持つこと、そのように励まされることが必要でしょう。
「暗闇というものはなく、ただ光が欠乏しているにすぎない」 ヴィッキー・ウォール
『リビング・エナジー』Vol.5(p14) ——————————————————————–
なるほど……。
前回「闇とは選択」だという観点が示されましたが、今回はその帰結が語られたのかもしれませんね。
その「闇」のなかで、「魂としての私たちが今生必要とする経験のアルケミー(錬金術)」を選択しているのかもしれない、と。
pari 記
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