あるがままの自分に寛ろぐ  ラハシャ博士

スピリチュアル用語に“明け渡し”という言葉があります。

弟子が「マスターに明け渡す」とか「グルに明け渡す」といった使われ方をする用語です。

自分以外で自分が最も信頼できる誰かに“全託”する、その人の指示に盲目的にしたがう、というような意味合いですよね。

ここで、マスターとかグルと言われた人物は、弟子にとってはある意味で神に等しい役割を演じているわけです。

つまり、明け渡した後には、弟子の人生というものはなく、師が彼の人生を生きるわけです。

でも、その意味を聞けばわかるように、この“明け渡し”というのは言葉はありますが、実際はなかなか難しく、まずはほとんど不可能なことだと言ってもいいでしょう。

いわゆる“明け渡し”た後の弟子の人生が弟子の判断の許容範囲に入る間はいいでしょうが、その範囲を超えたら、弟子の“明け渡し”はそこで崩壊するでしょう。

なぜなら弟子が“明け渡す”以上、その“明け渡し”の主体は弟子だからです。

このスピリチュアル用語で“明け渡し”と日本語に翻訳される英語(surrender)は、別の場面、つまり戦争の用語としては“降参”“降伏”などと訳されます。

“降参”とか“降伏”は、「お手上げ」ということですよね。

別に、自分で判断して選んだわけではない。

他に道がないから、“降参”しただけです。

スピリチュアルな求道の道には戦争ととても似たところがあります。

ただし、戦争には具体的な“敵”が存在しますから、その敵との戦いに勝利すれば、あるいは敗北すれば、その戦いは終わります。

ところが、スピリチュアルな求道には、具体的な“敵”というものは存在しません。

ただ、自分の“苦しみ”が存在するだけです。

さて、そのような状況での“苦しみ”は、どのように終わることができるのでしょうか?

その“苦しみ”には、どのような“降参”が起こることができるのでしょうか?

ラハシャ博士のおっしゃることをお聴きください。

では、「カウンセリング 『内なる宝の扉への鍵』」から「あるがままの自分に寛ろぐ」の部分をご紹介します。


あるがままの自分に寛ろぐ

では、なぜそうなるのでしょうか?

それは、どんなネガティブな体験の痛みも、事態が別であるべきだという解釈の中に横たわっているからです。

人が体験そのものとひとつになった瞬間、その副産物が喜びであり、愛であり、あるがままの自分への寛ろぎなのです。

驚愕すべき現象とは、感情や情緒や体験とひとつになることのなかで、ネガティブな側面はただ消えてゆくことです。

神秘的な発見は幸福、至福、平和、愛、自由のように、常に外側に求められてきたものが、すべて内側にすでに存在していたものとして再発見できることです。

人間が追い求めているものはすべて、お金でも、もっと大きな家でも、もっと大きな車も、あるいはもっと面白い愛のパターンを追い求めることも、それは基本的には幸福、至福、平安、愛、自由といったものを求めるという、この必要性を充足しようとしているのです。

あらゆる欲望は、一体性に戻るという根本的必要性を満たそうとするのです。

けれども、いったん私たちが内側に目を向けそこにあるものを見ようとしたら、私たちはこの一体性から自分が一度も離れたことがないことを発見します。

カウンセリング、オーラソーマ、その他のヒーリング・テクニックによって、再びひとつになろうとするこの試みは支援されるはずです。

オーラソーマの色彩のなかで、クライアントは「これが本来の自分だ」と明確に思いだすことができます。

その認識の中で寛ろぎが起こり、その色で表現される拒絶されていたかもしれないエネルギーが、家路に着くことができるのです。

そのまさに歓迎の中で癒しが起こるのです。

それはそこに一体性が起こるからです。

その一体性の副産物が喜び、愛、至福であり、平安なのです。

カウンセリングでは、カウンセラーがクライアントをサポートして、別であろうとするどんな希望も持たずにただあるがままを見て認識できるようにすると、一体になるというこの同じ現象が喚起されます。

クライアントが現にあるものを完全に体験できるようにカウンセラーがサポートすると、現にあるものとの闘いに囚われていたエネルギーが解放されます。

自分に目を向けると、私たちはどれほどのエネルギーが、あるがままの自分との闘いに浪費されていたかを発見します。

自分のなかで闘っている対象はすべて外側の世界にも反映されますから、私たちは同じものと自分の外側でも闘っているのです。

私たちが自分と闘うのを止め、自分のなかにあるものを全面的に体験する瞬間、私たちは内なる愛と受容を発見し、同時に全ゲシュタルトが変化し、世界の見方の全体が変化します。

私たちは世界と闘うことも止めます。

これは恋に陥った人が最もよく表現しています。

恋人は全世界が愛であることを、全世界が花園であることを感じます。

ですからカウンセリングとは、クライアントがすでにある自分を発見するのを助ける単純なサポートなのです。

クライアントが何かを変更したいと望んでいる場合でも、カウンセリングはクライアントのなかの何ひとつ、変えるという意図を持っていません。

逆説とは、内側の何かが変わるのを待つことによって変化が起こることはありえないことです。

変化と変容が起こるのは、別のものであろうとすることを止めることによって、あるがままを見て生きることによって、そしてあるがままのなかに寛ろぐことによってしか起こりません。

『リビング・エナジー』Vol.4(p14)



人生の“苦しみ”とは、自分がその苦闘を発明することによって起こっていたものなんですね。

自分がその苦闘をやめれば、苦痛はあるかもしれないけれど、それ戦うことによる“苦しみ”はなくなる。

もちろん、あるがままの自分を受け入れて、それとの葛藤をやめればですが……。

pari 記

 

 

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