無理強いしない

  無理強いしない

  「カウンセリングの技術」より
      ラハシャ・フリッチョフ・クラフト博士

       
いわゆるスピリチュアルな英語の文章によく出てくる表現に「judgment」(ジャッジメント)とか「judge」(ジャッジ)いう言葉があります。

「judgment」というのは裁判の「判決、審判」なども意味するわけですが、広くは「判断、判断力、意見、分別」といったニュアンスを含む判断一般を指す言葉です。

日本語の「判断、判断力、意見、分別」といった言葉は、“正しい判断”とか、“悪い分別”といったふうに、その言葉に肯定的または否定的な形容詞を付けて使われることはありますが、「判断」や「分別」といった言葉自体に、別に否定的なニュアンスはありませんし、またそのような意味合いで使われることもありません。

ところが、スピリチュアルな英語の文章にこの「judgment」という言葉が出てくる場合は、まず大なり小なり否定的なニュアンスを込めて使われていると考えられます。

裁判官が被告人を「judge」する(裁く)場合を考えると、これは有罪か無罪かを判定しなければならないわけですから、曖昧な判断というのはありえません。

同様に、AさんがBさんを「judge」する文脈でも、英語の文脈では白か黒かを決めなければならないニュアンスがつきまとうのだろうと思われます。

日本語の「判断」という言葉と比べると、どうも英語の「judgment」にはその曖昧さを許さないニュアンスが強いように感じられるのです。

日本語の「判断」という言葉の用法では、たとえば“人を判断する”と言った場合、これは“決めつける”というニュアンスよりは、“軽重を計る”という意味合いの方が強いような気もします。

いずれにせよ、赤ん坊でもないかぎり、大なり小なり人は人を判断せざるをえません。

それで翻訳者はスピリチュアル文献に出てくる「judgment」を翻訳するとき多少なりとも迷うわけです。(^^;)

それで「judgment」に“裁き”とか“決めつけ”といった訳語を当てたりもします。

でも、それがだんだん、これは「判断」そのものと解釈するしかないな、と思われてくるようになるのです。

今回ご紹介する文章でも、ラハシャ博士は「それはエネルギーのレベルでしかないかもしれません」という表現を使っています。

たとえ、人生の達人と言われるような経営者でも、“エネルギーレベル”にしろポジティブあるいはネガティブな評価を伴わなわずに“人を判断する”ことなどできるものでしょうか?

ここで問題になっているのは、もう“裁き”とか“決めつけ”といったレベルの話ではなく、まさに「判断」そのものだと考えざるをえません。

そしてラハシャ博士によれば、その「エネルギーは非常に強力に作用」するというのですから、もう何をか言わんやですよね。

では、ラハシャ博士の記事「カウンセリングの技術」から、そのあたりのお話をご紹介しましょう。

       
——————————————————————
無理強いしない

良いカウンセラーの主要な特徴の一つは、その存在のあり方であり、どのスペースから、いつそのコンサルテーションを行うかということです。
カウンセラーがそのクライアントを変えようと思ったり、あるいはそのクライアントが間違っている、悪い、となんらの形で思った瞬間、「無理強いする」ということが起こります。
おそらく、それはエネルギーのレベルでしかないかもしれません。
しかし、私たちも知っているように、エネルギーは非常に強力に作用します。
セッションにやってくる人は誰も、それがカウンセリングであろうと、オーラソーマのコンサルテーションであろうと、自分が悪いと感じたり、無理強いされたいとは思っていません。
ですから、まずカウンセラーの存在のあり方に多くの注意を向け、セッションを始める前に、そのコンサルタントが、今ここにいて、ジャッジメントしないで、ハートにとどまる、という瞑想的なスペースを見いだすことができるようにします。

オーラソーマは「無理強いしない魂のセラピー」ですので、クライアントが自分のボトルを選び、自分の処方箋を見いだすとき、このアプローチは、そのコンサルタントの気づきと瞑想性を通して、サポートとなります。


私たちはみんな無理強いされることに対してアレルギーを起こしています。
子供のときから、もちろん愛という名においてですが、どれほど無理強いされてきたことでしょう。
たいていの私たちの教育は自分を変えること、進歩させること、何かになること、に連動していました。

「何かになること」が主な病気(Diesase)になり、「あること」(Being)が忘れ去られました。

心の奥深くで自分は悪いんだというふうに思いこんでしまっています。
そして自分には価値がないんだとしばしば感じます。
それだけでなく、しばしば自分のエネルギーに対してさえ無理強いし、操作し、内側のより深い智恵に耳を傾けようとしません。
ヒーリングは、私たちが愛に満ち、こころを開いて、配慮し、無理強いしない環境の中で、自分は誰かということを発見するスペースを持ったときにのみ起こります。
もし庭師に忍耐がなく、苗床の植物に無理強いして、その植物をもっと早く成長するようにとひっぱりはじめたらどうなりますか?
結局は、根と茎を分離させてしまい、その植物を枯らしてしまうことになります。
ではこの場合、無理強いしないとはどうすることでしょう?
いい庭師になるにはどうすればいいですか?
それは良い環境(十分な光と太陽光、いい土壌、適切な量の水、そして適切な肥料と愛に満ちた世話をする態度)を整えれば、その植物は自分でヒーリングしながら成長していくのです。


……
                『リビング・エナジー』vol.2(p36)
——————————————————————

【「何かになること」が主な病気(Diesase)になり、「あること」(Being)が忘れ去られました】

ほとんど、人間であるとは何らかの病を生きることだ、と言われているようなものですね。(-_-)

pari 記





Twitterボタン