このごろは日本でも、よほど田舎にでも行かなければ、昔風の犬の飼い方はできなくなりましたね。
昔風というのは、要するに、犬の放し飼いです。
いちおう、何々さんの家の犬というのはあっても、別につながれてはいなくて、どこでもそのへんを自由に散歩しているというふうでした。
つまり、昔の日本では、犬や猫はペットや家族ではなかったわけです。
でも、いつからか都会ではそのような曖昧無自覚な飼い方はできなくなりました。
そしていつの間にか、西洋風の飼い方を義務づけられるようになっていったようです。
ペット(愛玩動物)という位置づけは、まあ家族に準ずるような感覚と言っていいのでしょう。
飼い主がそのような意識で接すれば、動物ももちろん、そのような関係を飼い主との間に結ぶようになるでしょうし。
動物愛護に関しては、イギリスはとても敏感な国民性のようですね。
ペットとの濃密な関係性も、この国あたりから広がっていったのかもしれません。
今回ヴィッキーさんが紹介する不思議な話も、そのような飼い主とペットとの濃密な関係がなくては、とうてい起こるはずもないことだったでしょうね。
そしてまた、ある女性と犬の不思議な話があります。
B夫人はいつも仕事で車に乗っていたのですが、その日は朝から雨模様で、ただでさえゆううつな気分がよけい滅入るような日でした。
そのころ彼女の人生には、まるでパッチワークのように暗い出来事が繰り返し、それも立て続けに起こっていたのです。
最初に夫の死、それから親しい友人が逝き、最後が可愛がっていた犬の死という具合に。
その日、彼女は物思いに耽りながらも快調に運転していました。
と、突然一匹の犬がどこからともなく現れたのです。
あろうことか、それは最近葬った老犬のラスティでした。
胸がきゅっとなり、考える間もなく、足はブレーキを踏んでいました。
と、次の瞬間、向こうから来たトラックが濡れた路面をツツーと滑って街灯に激突し、それと同時にぐるっと方向を変え、その巨大な車体の脇腹が彼女の車のボンネットにぐんぐん迫り、あとほんの数センチというところまで来てピタッと停まったのです。
彼女はショックで真っ青な顔で車から降りると、同じくらい青ざめたトラックの運転手を見、考える間もなくこう言っていました。
「ごめんなさい。
でもとりあえず犬はひかずにすんだわね」
「犬だって?」と、運転手。
「でもまあ街灯があってよかったよ。
じゃなきゃ、あんたはあの世に行ってたぜ」
彼は今だに信じられない、という顔をしています。
「濡れた道路がちらちらして、車が滑り始めたと思ったら、もうどうにもならなくてね。
ブレーキも何もききやしない。
いや、実にラッキーだった」
彼女には返す言葉がありませんでした。
その夜、家に帰る道すがら、彼女は何度も起こったことを思い返していました。
ブレーキを踏んだのは、確かにトラックがスリップし始める前で、だからこそ、危ういところで一命を取り留めたのです。
それでは、実際にはいなかった犬の姿を見て、ブレーキを踏んだのでしょうか。
それとも、本当にいたの?
愛しのラスティは、天国で笑っているようです。
『オーラソーマ 奇跡のカラーヒーリング』(p270-271)
車から降りたB婦人が最初に「ごめんなさい」と謝ったのは、自分が物思いにふけってぼんやりしていたことを詫びたのでしょうか?
ホッとしたのは、対向車線を飛び出して突っ込んできたトラックの運転手の方だったでしょうが。
こういうことが起こりうるような構造が現象世界の背後にはあるのでしょうか?
それとも現象とは、もともと夢のようなものなのか。(^_-)
pari 記