B19 Living in the Material World(物質界に生きる)

 

https://artbeing.com/aura-soma/equi/B019.html

ヴィッキーさんのメッセージは「再生――マインドが一新すると、身体も一新する」 

おもしろいですね。 マインドが一新すると、身体も一新する。
マインド変われば、身体だけでなく、あなたの人生も変わってしまうでしょう。

しかし、マインドが、あなたをコントロールしている限り、マインドを変えるのはなかなか難しい試みです。
マインドの90%は、無意識に条件づけられ、あなたをコントロールしているのですから。

例によって、ヴィッキーさんの言葉をみてみましょう。

「この美しい、豊かな色の組み合わせは、天を地にもたらし、魂の生が地上の生とうまく調和していることを示しています。
このレッド/パープルの「バランス」は、天への直通電話でもあり、コミュニケーションに関連し、魂が外に広がった姿です。
私はこれを、「今日」のボトルと言っていますが、それは「今ここ」つまり過去や現在や未来とつながる「永遠の今」と関連があるからです。

広い意味でのヒーリングに携わる見者やヒーラーは、直接的にせよ、そうでないにせよ、コミュニケーションのために、どれほど多くのエネルギーが必要かを理解しています。
ですから上の部分のレッド、生命であり大地のエネルギーであるレッドがどれほど必要か、見て取ることができるでしょう。
それは生命力であり、それゆえ、より高い意識へと至るために絶対必要となってくる、地に足をつける力を与えてくれるのです」
『オーラソーマ 奇跡のカラーヒーリング』ヴィッキー・ウォール著 より

https://artbeing.com/cd_book/aurasoma1/BKJ02.html

レッドという第1のベースチャクラヴァイオレットという第7のクラウンチャクラとの組み合わせです。

ヴィッキーさんのような霊的スピリチュアルな質と、エネルギーとグラウンディングの質の両方の質をかねあわせたボトルです。

ヴィッキーさんのコメントには、彼女自身のこのボトルへの思い入れが伝わってきます。彼女自身の体験がにじみ出ている感じがします。

「物質界に生きる」というボトルのタイトルは、スピリチュアリティとしての魂が、このレッドの物質界に生きている姿が現れていますね。

この肉体という物質を持って生きている以上は、物質界に生きるということも魂の成長にとって欠かせないことでもあります。

ヴィッキーさんは常にそのことを忘れず、そのことを生きた人です。

タロットは「太陽(The Sun)」

ウエイト版では、はだかの子どもが両手両足を広げて白馬にまたがり、大きな旗を手に持っています。後ろには塀があり、ひまわりが咲き、頭上には太陽が黄色い光を放っています。

ウエイト版 太陽

 

クロウリー版では、はだかの二人の羽根のはえた子どもが、それぞれ自由に、舞うように踊り、その上に太陽が輝き、12の星座のシンボルを照らしています。

クロウリ―版 太陽

 

二つのタロットに共通するのは、太陽の下の純真無垢な、自由な子どものイメージです。
ウエイト版でははだかの子ども、クロウリーでは二人の羽根のはえた子ども。

どうして、ひとつのタロットではひとりの子どもであり、もうひとつは二人の羽根のはえた子どもなのでしょう?

私がクロウリー版を見るときに参考にしているマンガラのタロットのテキスト、「直感のタロット 意識のためのツール」には、次のように書かれています。

「自由のなかで人と結ばれることが、エクスタシーに満ちて踊る二人の人物に象徴されています。
背中の羽根は、束縛を避けるために関係性に必要とされる自由の可能性を表し、背景の緑の山は、このようなパートナーシップからやってくる創造性のエネルギーです。
人とのこのようなダンスは、とても喜ばしいものですが、太陽へと向かう道を妨げている山の頂上の壁(赤と黄色の輪)は、最後の瞬間には、内なる源泉には自分ひとりでしか達することができないということを暗示しています。
人とともにあっては、道は閉ざされているのです」


直観のタロット

http://amazon.co.jp/o/ASIN/4881780581/oshoartunity-22/ref=nosim

関係性の問題の核心をついていますね。

「自由のなかで、人と結ばれること」

自由な小鳥の美しさを手に入れようとして、それをかごに入れてしまったとたん、小鳥は自由を奪われ、本来自分が手に入れたかった自由な小鳥の美しさは奪われてしまいます。

本来、自由でいた人を愛したのに、相手を束縛してしまうことで、その人の美しさは奪われてしまう。そしてまた、愛することは自由でいることでのみ、はじめて可能なのです。

相手の自由を奪ってしまえば、相手が自分を愛する可能性さえをも奪ってしまうことになってしまいます。

それなのに、相手の自由を奪っておきながら、自分を愛して、というのは矛盾なのですが、大抵の関係性はそのようになりがちです。

なぜでしょうか?
それは愛することの源泉を相手に求めているからなのです。

そうであるかぎり、そこには自由はなくなるのです。 相手を束縛していないと、自分は相手から愛を得られないと思ってしまうからです。

それは子どものときに、子どもは両親から、あるいはまわりの人から愛情を得ることでしか生きることができなかったからです。

だから愛情を得るために両親の望むいい子に、あるいは悪い子になって心配させることで愛情を得ようとしたり、相手の望むことをすることで愛情を手に入れようとします。
そういう役割を相互に演じる関係性を形成してしまうわけです。

しかし、そういうふうに役割を演じることで、愛情を相手から得ようとすることで、本来の相手の自由を奪い、そしてまた自分自身の自由をも放棄して、束縛しあう関係性になってしまうことになるのです。
それは、本来の自分自身であること、純粋無垢な内なる子どもを放棄してしまうことでもあるのです。

そこで「内なる源泉には自分ひとりでしか達することはできない」、ということが意味を持ってきますね。

愛することの源泉は、自分の内側にしか見いだすことはできないのです。 そうすることで、再び純粋無垢な子どもでいることの自由を取り戻すのです。

それが、再生、ということでもあります。

内なる源泉においては、ひとりであることは宇宙とひとつであることでもあるのです。

えたに 記(2004,11/13)
        

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