「時とは愛するための機会だ」

「時とは愛するための機会だ」
「変化と手放すこと」より     クローディア・ブース
        年があらたまりましたが、去年もたくさんの方々が亡くなられましたね。
毎年毎年、その年とともに、その年に亡くなった方々もさざ波を起こしながら、記憶の彼方へと消えていくようです。
そしていつか“自分”と想像されていたこの身体にも寿命が来て崩壊し、その年とともに記憶の彼方へと消えていくんでしょうね。
それは寂しいことのようでもあり、悲しいことのようでもあります。
でも、よく考えてみると、こういう感情はすべて想像からくるのかもしれませんね。
たとえば、年老いて先の長くないことを感じているおじいちゃんは、その家族に新たに加わった赤ちゃんの誕生を喜ぶかもしれません。
しかし、その赤ちゃんの方は、そのおじいちゃんが死んでもそれを悲しむことはないでしょうね。
赤ちゃんはまだ家族の物語や人の世の物語に組み込まれていないので、何も想像しませんから。
不思議なものですね。
われわれはついつい物語の方を真実だと思ってしまいますけど。
でもそういうものは全部、記憶と想像のなかにしか存在していないんですね。(-_-)
とはいえ、別れは別れとして、悲しみは悲しみとして、自然に起こってきます。
現象はたえざる変化ですものね。
われわれがつねに変化に“晒され”ていると感じるのは、おそらく、変化に“逆らって”いるからなのかもしれませんね。
でも、結局は“逆らう”ことなどはできませんから、変化を受け入れ、そして手放していくしかないのでしょう。
このように今を生きることを、マイク・ブース氏は「時とは愛するための機会だ」と捕らえていらっしゃるようです。
ではクローディア・ブースの「変化と手放すこと」をご紹介しましょう。
       —————————————————————— 変化と手放すこと
たくさんの愛しい人たちが、最近私たちを残して旅立ちました。 「天に」広がる新しい牧草地へと。 ラム・ダスは、私たちの知っているこの生は「小学校」であり、さらなる学校が続くと言っています。 マイクと私はジョン・ゲリーというすばらしい人に引き合わされましたが、私はずっと彼を愛し続けることでしょう。 彼は私たちが崇敬する教師であり、長年の友人でもありました。 彼はさまざまな形で、私たちふたりの心に深く触れました。 彼への感謝を表すために今できることは、愛をもって彼を思い出し、彼の教えてくれたことを分かち合うことだけです。 彼は間違いなく重要な人であり、たくさんの信奉者は、幾世代にもわたって彼の言葉を糧に生きていくことでしょう。
マーガレットも旅立ちました。 彼女のオーラソーマと食事と環境保護に対するコミットメントは、私たちすべての模範です。 彼女の信仰はとてもパワフルで、その粘り強さには誰も及ばないでしょう。
愛するカヴィーシャもまた手の届かない所へと去りました。 けれども私たちのハートの中で、彼女はいつも生き続けることでしょう。 ですから、私たちのハートがそれぞれユニークな形で教えてくれるものを実践し学ぶとき、私たちは手放し、さらに深く彼女を愛するのです。
この号は、変化と手放すことがテーマなようです。 それは、しばしば不当に見えるものです。 私たちは「でも、この欲求や欲望はどうなるの?」と考えます。 オーラソーマは私たちがしがみついているところがどこなのか、結晶化しているところはどこなのかを、たえず教えてくれます結晶化とは、人間に当てはめれば、停滞や死ということになります。 変化と柔軟さが、生の署名なのです抵抗のあるところというのはどこであれ、もしも内側を見れば、違うアプローチがあることがわかるところです。 ヴィッキーの言う「レインボー・ウォリアー(虹の戦士)」はみな、風の柔軟さを学んでいるのです。 カルロス・カスタネダの教師であるドンファンも、戦士という観念を使っていますが、私はずっとそれが好きではありませんでした。 ところが、ペティ・タイランツの最新作の内なる炎に関する本の概念に出会って、それがピンと来始めたのです。 風と遊びましょう。 変化の風と愛を込めて遊びながら、キリストが言ったように「幼子のようになろう」ではありませんか
私たちがみな、オーラソーマを愛しているのは、オーラソーマが本当に、新しい見通しを開き、私たちの展望の絶え間ない変化を見せてくれるからです。 もしかしたらそれは、「空中の楼閣」かもしれませんが、私はマイクが言う「時とは愛するための機会だ」という新しいパラダイム(時代を形づくる理論的枠組み)にすべての人がコミットしているのだ、という考えかたが好きです。 これは「時は金なり」に対抗するパラダイムです。 「世界が自分に対して何をしてくれるか、ではなく、私があなたと世界に何ができるか」問うてみるのです。
だからこそ、私はいつも、生徒を所有物にしない、ということを話すのです。 ケアをするということは、尊敬とコミットメントをもたらすものであり、ケアをする中で、私たちは生徒が物事を異なった目線から見ることによって利益を得、真の価値を得ることがわかるのです。   ですから、本当に無理強いしないということは、真に美しさをもたらす生の多様性へのケアに満ちた尊敬の念と共に、手放すことへと至るのです。   ですから、たぶん、オーラソーマは私たちにすべての生命を尊ぶことによって、自分自身と他者を敬う機会を与えているのだと言えるでしょう。 私にとっては尊ぶこととは内なる強さを持って凛として立つということ、つまり、自分の内なる強さを認めることです。 そしてそのとき、他者を認め、肯定し、受け入れることができるのです。 合掌はこの非常にすばらしい例です。 胸の前で両手を合わせ、おじぎをする。 「私の内にある最高の存在が、あなたの内にある最高の存在におじぎをする」のです。 これは最も神聖な行為――存在するものすべてに神聖さを認めるということです。 地に根づいたハートのスペースが神聖なるものを尊び、敬うことは、光に満ちた喜びの瞬間へと至り、私たちが古い観念を手放し、新しいものへと開くとき、今あるすべてを愛し尊ぶことになるのです。   そんな瞬間を、マイクと私はこの数か月の間にたくさんの人たちと分かち合いました。 マイクと私にとって、このように非常に多くの貴重 な時をあなた方すべてと過ごせたことを名誉に、そしてうれしく思います。
   クローディア・ブース  (イギリス版 リヴィングエナジー編集者)
                『リビング・エナジー』Vol.4(p54)
        『リビング・エナジー』Vol.4(p20)
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「オーラソーマは私たちにすべての生命を尊ぶことによって、自分自身と他者を敬う機会を与えている」……。
そうなんですねぇ。
pari 記
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