鎌倉歳時記・夏の海蔵寺
今回は久しぶりに海蔵寺へ行ってきました。 以前、ここに来たのは3月のはじめ頃。
前回来た時とはまったく季節が違います。 緑がイキイキ、もっさりとしていますね。
そばまで登っていかないと門前を見ることができません。
そろそろ秋なのに、まだまだ夏の趣きです。暑い!
ところで、秋の花「萩」が咲きはじめていました。
海蔵寺は萩の花で有名です。 これからが見頃・・・山門前の石段を覆いつくしていきます。
今回、ご紹介したいのはこの井戸・・・名前は「底脱の井」といいます。
知る人ぞ知る井戸なのです。 「千代能の井戸」というとピンとくる方はいるかもしれません。
和尚トランスフォーメーションタロットの中の、一枚のカードでこの井戸の名前の由来を知ることができます。 http://www.osho.com/Main.cfm?Area=Magazine&Sub1Menu=Tarot&Sub2Menu=OshoZenTarot&Language=Japanese
Chiyono and her bucket of water
自分の探究においては真正でありましょう。 そのためにはあらゆることをしましょう。 映し出されたものの背後にある元のものを知ろうとする渇き、それがあなたを『究極の事故』に値するものにしてくれます。
千代能はサニヤスをうけようとして、尼僧になろうとして、次から次へと僧院を訪ねた。 だが、偉大なマスターたちでさえ彼女を拒んだ。 彼女はあまりにも美しかったからだ・・・。
僧たちは神を、そしてあらゆることを忘れてしまうだろう、途方にくれた彼女は自分の顔を焼いた。 顔じゅうに傷をつけた。 そして、彼女はひとりのマスターのところに行き着いた――彼は、彼女が女なのか男なのかさえ見分けることができなかった。 そこで、彼女は尼僧として受け容れられた。 彼女はまさに用意ができていた。その探究は真正なものだった。 彼女にはその事故に値するだけの価値があった。 それは働きかけて得られたものだった。 彼女は三十年、四十年の間休みなく学び、瞑想した。 そして突然、ある夜・・・。
彼女は手にもっていた桶の水に映っている月を見ていた。 映し出されたものですら美しい、それらは絶対的な美を反映しているからだ。 真の探究者は、映し出されたもののなかに非常に多くのことを知ってきた。 それはあまりにも美しく、そこにはすばらしい音楽があったので、今度はその源を知りたいという欲望が湧いてきたのだ。 歩いていきながら、彼女は桶の水に映っている満月を見守ってた。
突然、桶をひとつにまとめていた竹の箍たがが切れて、桶はばらばらになって落ちた。 水が勢いよく流れ出し、月の影は消えた――そして、千代能は光明を得た。
彼女はこの詩を書いた――
あれこれと 私は桶をひとつにまとめとおこうとしてきた 弱い竹が切れないように望みながら―― 突然底が抜け落ちて もう水はない 水のなかの月もいまはない―― 私の手のなかには空
光明を得ることは事故に似ている。だが、私を誤解してはいけない――私は、そのためになにもしてはいけないとは言っていない。 もしあなたがそのためになにもしなければ、その事故ですら起こらないだろう。 それは、そのために多くのことをやってきている者たちにしか起こらない――そして彼らがやっているそのことを抜きにしては、それはけっして起こらない。
あなた方の瞑想はすべて事故の起こりやすさを、招待を創り出すためにすぎない。 ただそれだけだ。 事故に、未知なるものに備えるがいい――用意を整え、待ち、受容的であるがいい。 招待がなければ客はけっしてやって来ない。
この井戸は尼となった無著禅尼の上記の悟り歌「千代能がいただく桶の底脱けて 水たまらねば月もやどらじ」より名づけられたそうです。
鎌倉へお寄りの際は、是非とも訪れてみてくださいね。
千代能の得た光明の片鱗が感じられるかも・・・!
はみんぐばーど 記
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