神とひとつになること
必要なショックを起動するために、だんだん地上の状況が煮詰まっていく感じですね。
十年一昔と言いますが、1997年にはじめて『神との対話』の翻訳本が出版されたのは、阪神・淡路大震災の翌々年のことでした。 今ちょっと一冊目を読んだ当時のことを思い出してみると、まだまだ時代の空気のなかに大震災の重さが押し被さっていたような気がします。 時代は時代として、理屈好きのわたしには『神との対話』の一冊目を読んだときの感激と驚きは相当なものでした。
“神が口を利い”たというのですから、そのこと自体驚きとも言えますが、やはり迫力はその内容にあったと思います。 それまでいろいろ日本語で出版されるスピリチュアル本には手を出していて、日本の古神道の“御神示”などもそのなかには含まれていました。
「心でわかってくだされよ」という類の表現には心揺さぶられるものがあり、非常に感動してもいました。 しかし、論理的な西欧人であるニール・ドナルド・ウォルシュさんが聞いた『神との対話』の言葉を目にしたときは、そのあまりの雄弁と論理性に圧倒されたましたね。 神の言葉がこれほどわかりやすくてもいいのか、とさえ思いました。
それは後にシリーズとなって、『神との対話①』『神との対話②』『神との対話③』『神との友情(上)』『神との友情(下)』といったふうに出版されていきました。 理屈好きのわたしは、それぞれ貪るように読み、素晴らしい内容だと思いました。 神の雄弁とはこのようなものか……と唸りました。
しかし、もし『神との対話』シリーズのなかで、強いて一冊を選ぶとすれば、そう、この本が出版された時点では、この『神とひとつになること』でしょうね。 自分の中の必要がこの雄弁を自分の現実に呼び出したのだという、この本の中での神の保証も納得がいきました。
それまで、いろいろの覚者やいわゆる“高位次元”の方々の言葉に耳を傾けてきても、しかもなお、かすかに残る“被害者意識”の片鱗を払拭し切れませんでした。 「愛」という言葉にも「感謝」という言葉にも、本当には共振できませんでした。 それでいながら、そのような自分に不満が残ってもいたわけです。 この本を読んで、何やらその“不満”ごと、自分がそれを抱えるというなら、それはそれでいいのだ……という気がしてきました。 つまり、論理的に……ということですが。
この本が引き出してくれた自分の本音は……まことにありがたかった……。 次元も何もなかったわけです。 次元も何も含めて、存在するすべてを含めて、どんな権威も根拠もなかった……。 おずおずと、戸惑い、遠慮し、怯え、右顧左眄する入神の芝居に入れ込んだ“私”と、高らかに哄笑する<私>がいるだけでした。 「最高の権威は自分自身のなかにある」……。 わたしたちはすべて一体である……とはそういう意味だと思いました。
ちょっと立ち読みしてみましょうか。 ——————————————————————– 永遠への旅を続け、<マスター>への道を歩いているとき、あなたは人生のさまざまな環境や状況、展開に出会う。 そのなかには歓迎したくないものもあるだろう。 そういうとき、ほとんどのひとはいちばんしてはならないこと、つまり、これはどういう意味なのかを知ろうとする。
何かが起こるには理由があるはずだと考え、理由を探ろうとするひとがいる。 ものごとは何かの「しるし」だと言うひともいる。 そこで、何のしるしだろうかと知りたがる。 いずれにしても、ひとは人生で起こる出来事とや経験の意味を知ろうとする。 だが、じつはどんなものにもまったく意味はない。 人生の出会いや経験に隠された本質的な真実などない。
誰が事実を隠すというのか? なぜ隠すのか? もし、あなたがたに真実を見つけさせたいのなら、隠すより明らかにしておいたほうが効果的ではないか? もし、神に言いたいことがあるなら、あなたがたに謎解きをさせるより、はっきり言うほうがずっと簡単ではないか? (それに、ずっと親切ではないか?) じつは、どんなものにも意味はない。 あなたが与える意味以外には。
人生には(life:生命には)意味はない。 多くの人間は受け入れがたいと思うだろうが、これはわたしの最大の贈り物だ。 人生(life:生命)が無意味だから、あなたがどんな意味でも決定することができる。 その決定によって、あなたがたは人生のさまざまなもの、あらゆるものとの関係を自分で定義する。 じつはこれが、どんな存在であるかを自分で選ぶという経験の意味(means:手段)だ。 これが自分についていだく最も偉大なヴィジョンの、そのまた最も壮大なヴァージョンにしたがって新たに自己を創造し、再創造するという行為だ。 だから、何かが起こったとき、どうしてかと問うのはやめなさい。 どうして起こったかを自分で決めなさい。 選んだり決定することができなければ、でっちあげなさい。 どうせそうするのだから。(P193-195)
『神とひとつになること』 ——————————————————————–
ふーむ。(-_-)
こういう言葉は、必ずしも、誰もが好きな言葉ではないと思います。
でも、こういう言葉が、必要な人もいると思いますね。
pari 記
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