ダライ・ラマ瞑想入門 その2

前回、「ダライ・ラマ瞑想入門」についてご紹介しました。
ダライ・ラマ瞑想入門―至福への道/ダライ・ラマ14世テンジン・ギャツォ ¥2,625 Amazon.co.jp
今回はその後編です。
この「ダライ・ラマ瞑想入門」は、チベット仏教のすべてを含む最も優れた教えとされている菩提道次第(ラムリム)についてのダライ・ラマによる解説です。
菩提道次第(ラムリム)は私たちを本当の幸せに導くシステムで、とりわけチベット仏教聖者たちが、全身全霊を傾けて、複雑な人間の心と取り組む過程から生まれたものです。
瞑想を通して、日ごろ覆い隠されている人間の本質(悟り)へ私たちを導く。 すぐれた実践の手引き書とされています。
前編では、初級段階の瞑想の修行者についての一部を紹介しました。 初級段階とは、有暇具足、死と無常、三悪趣の苦しみを深く考察することで、瞑想の動機づけを持つ段階です。
つまり人間として生まれた最高の可能性とチャンスを活かして、修行(瞑想)しなさい、ということです。
人間として生まれることは非常に稀な機会であり、いつ死ぬともわからないはかない命であるので、今修行し、瞑想しておかなければ餓鬼畜生地獄の三悪趣の苦しみを受けることになりますよというものです。
そして、次の中級段階の瞑想の修行者というのは、因果の法則を理解して、輪廻の世界に生きることの苦しみを考え、その輪廻の世界からの解脱を願う心を起こす、という段階です。
では、どうして瞑想の修行をするのでしょうか?
それはひとことでいえば、幸せになるためです。
では、どうすれば幸せになるのでしょうか? 
それは苦しみがなくなることによってです。 苦しみは煩悩によって作りだされ、その煩悩を滅することで、永遠に平和で幸せな境地に到達する、といいます。
では、その煩悩というのは、どのように作りだされるのでしょうか? 
それは無明、無知によってです。
無明というのは、さまざまなものごとの真の本質を誤って理解してしまうことです。
ですから、瞑想というのは無明、無知を打ち砕くもので、分析的熟考の瞑想や空の教義を理解した智恵などによってものごとの本質を明らかに観ていくことによってなされます。
他方人間には意識があり、その意識の本質は純粋で澄みきっているものであり、心を汚すどんな煩悩も、意識の本質まで浸透することはありません。 なぜなら、心の本質は光明であって、煩悩は表層的なものに過ぎず、心の核心には煩悩が浸透することはないからです。
その意識の本質は仏性ともいわれ、それは完全な悟りをひらくための種、でもあります。
従って、瞑想によってその意識の本質に気づくことによって悟り(光明)を得る、つまり真の幸福を得ることことができるようになります。
以上が中級段階の瞑想修行です。
それでは、上級段階の瞑想修行とはどのようなものでしょうか?
それはダライ・ラマによれば、菩提心があるかどうかによるとされています。
菩提心とは、一切衆生を幸福にするために仏陀の境地を得ようとする利他的な心であり、それがあるかないかで大乗仏教徒か小乗仏教徒かがきまります。
自分の悟りのために瞑想修行して解脱を得た人が阿羅漢、他の人を助け、幸福にするために瞑想する人が菩薩、ということになります。
従って上級者の瞑想修行には、菩提心を起こし、菩薩行を実践していくということが重視されます。
この「ダライ・ラマ瞑想入門」には、上師が弟子に実際に教える口伝や密教までのことが記載されてあります。
「菩薩戒は、その他多くの戒よりもすぐれています。 菩薩戒を受けることは、大きな功徳や福徳を積むことを約束し、修行者をもろもろの悪行から守ってくれます。 ところで、修行を積んでいない人や菩薩行に信頼を置いていない人に、不必要に菩薩戒の話をしてはいけません。 菩薩戒を評価していない人がそれを聞いたら、菩薩戒に反発したあげく、致命的な悪業を犯してしまうかもしれないからです。 ですから菩薩戒について話すときは、話をするにふさわしい相手かどうかよく見きわめてからにしましょう」と書かれています。
密教の教えに出会うことは、仏に会うよりも稀であるといわれています。
そんなことまで書かれてある本というのは、とても貴重です。
瞑想に興味のある方は、一度読んでみられると良いかと思います。
尚 記
       
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