アイ・アム・ザット 私は在る―ニサルガダッタ・マハラジとの対話

私は在る (I AM THAT)

アイ・アム・ザット 私は在る―ニサルガダッタ・マハラジとの対話/著者不明

¥3,990
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編集者は三反久美子さん、オーラソーマ・プラクテショナーの方です。

この本は、ラハシャのカウンセリングスキル受講者の方々へのお勧め本リストでも紹介されています。

以前はOSHOの本をはじめ、クリシュナムルティやラマナマハリシ、グルジェフなどを好んで読んでいたので、このような本にはなじみがあるのですが、久しぶりにその種の大作を読んだ感じです。

このような悟りを得ているような人の本は、そこから知識を得ようとして得られるものではなく、その人の発する何かに感化されるところが大きいです。

実際には、彼が言っていることは知識によって得ることができないものなのです。

この本の場合は、ニサルガダッタ・マハラジとの対話に参加する感じで読み進めていくことができます。

さまざまな人が、さまざまなレベル、側面から質問しているので、自分にあてはめて参加している臨場感があります。その返答にマハラジその人を感じ、その対話とともに、瞑想に導かれるような感じになります。今日一日、どっぷりその人のダルシャンを受けたようなものです。
(ダルシャンというのは、悟りを得た師との出会い、ないしその祝福を受けることをいいます)

この本は、二段組で567ページもあります。
普通なら上下二冊で出版されてもおかしくないですね。

瞑想に興味をもたれる方は、ぜひ読んでみられるといいと思います。
一気に読むよりも、少しずつ瞑想しながら読むといいでしょう。

この本で言っていることをひと言で言うと、

私は「存在」する。それゆえ、すべては「存在する」のだ。

ということです。

デカルトは「われ思う。ゆえに我あり」と言ったのと対照的です。

このデカルトの考えが西洋哲学の根本的考えであり、科学の基礎ともなったと言われています。

極論と誤解を承知で言えば、デカルトは思考、マインドのなかに自己の存在証明を見出したのに対し、ニサルガダッタは「存在」そのもののなかに自己の存在証明を見出したともいえるかもしれません。

西洋と東洋の違いが対照的です。

それはともかく、人間の成長段階には3段階あるという説があります。

エゴの段階。魂の段階、そして存在、の段階。

別の言葉で言えば、マインド、ハート、ビーング、とも言えます。

エゴ、自我を発達させるというのは子供の成長段階のプロセスですし、西洋の個人主義の基礎でもあります。
資本主義はそのエゴの意志、欲望の原理を最大限発揮させるためのシステムです。
また、マインドを最大限発揮することで科学も発達してきました。
しかし今の時代は、戦争や環境破壊、資本主義の矛盾などが大きくなり、そのことが人間の存在そのものを脅かしつつあります。

そこでは魂が忘れ去られ、ハートが置き去りにされてきました。

こういう時代において、オーラ・ソーマは魂のセラピーとして、魂を人間のなかに見出していこうという意味があるともいえます。

そして、エゴからハートに至る人間の進化を推し進めるものともいえます。

そして瞑想の第一歩は、マインドからハートへ、というふうにOSHOは語っています。

マインドからハートへの第一歩。でも同時にそれは最後の一歩です。

OSHOによると、ハートへの一歩は、その努力が必要ですが、ハートまで至ると、そこからビーング、存在へは自動的に起こると語っています。

というのは、ハートからビーングには、努力する自己、というのは存在しないので、ものごとはただ起こっていくのです。

ビーングというのはある意味で、ハラ、の地点だとも言えます。

日本でよくいうところのヘソ下三寸。「腹が据わる」というときの腹です。
武道でも腹がすべての基点となって動作しますね。

坐禅はまさにその腹で坐るわけで、只管打坐、というのは、まさにマインドからダイレクトにビーング、存在へと入っていく方法です。ハートなんてことさえも言いません。

ニサルガダッタは「私は在る」ということに感覚を集中することで、その存在、ビーングの状態を達成する方法のようです。そこで真我を見出すのだ、と彼は言います。

ここで彼が「私は在る」というときは、私は身体だとか、私はマインドだとか、私はこれだとか、あれだとうようなすべての「私」の属性を超えたもの、存在の全体性、意識の大洋、宇宙全体というような意味で言っています。

では、彼はどのようにしてその真我を見出したのでしょうか?

その秘密を、彼は以下のように語っています。

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マハラジ:あなた自身を知ることを助けるものが正しく、それを妨げるものは間違いだ。真我を知ることは至福であり、それを忘れることが不幸なのだ。

質問者:観照者意識が真我なのでしょうか?

マハラジ:観照者意識はマインドのなかの実在の反映だ。実在はその彼方にある。観照者とは、それを超えて彼方へと通りぬけて行くための扉なのだ。

質問者:瞑想の目的とは何でしょうか?

マハラジ:偽りを偽りと見ることが瞑想だ。それは絶えず続いていかなければならない。

質問者:私たちは定期的に瞑想するように言われています。

マハラジ:真実と偽りの区別、そしてその偽りを自ら放棄していく日々の訓練が瞑想だ。初心者には数多くの種類の瞑想があるが、最後にはひとつに溶け入る。

質問者:どうか、どれが真我の実現への一番の近道か教えてください。

マハラジ:どれが近く、どれが遠いということはないが、ある人はより真剣であり、ある人はそれに劣る。あなたに私自身のことを話そう。

私は単純素朴な人間だったが、グル(師)を信頼し、彼が私にするように言ったことをしたのだ。
彼は私に「私は在る」という感覚に集中するようにと言い、私はそうした。
彼が、私は考えうる、知覚しうるすべてを超えたものだと言い、私は信じたのだ。
私は彼に、私のハートと魂、許される限りのすべての空き時間(家族を支えるための仕事があったため)とすべての注意を捧げた。
真剣な修練と信頼の結果、私は三年のうちに真我(スワルーパ)を実現したのだ。

あなたに合う道を選ぶがいい。真剣さが進歩の度合いを決定する鍵だ。

質問者:私へのヒントはないのでしょうか?

マハラジ:「私は在る」という気づきのなかに、揺らぐことなく確立しなさい。これがはじまりであり、またすべての努力の終わりだ。

            『私は在る ニサルガダッタ・マハラジとの対話』
                    ナチュラルスピリット P72より
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この時代、自然災害、政治災害(による戦争や経済問題)、環境破壊など、いつ何が起こっても不思議ではありません。

そのようなときに何が一番確かなものでしょう?

あなたはこの身体でもないし、マインドでもない。

それは真我を見出すことだ、とニサルガダッタ・マハラジは言っています。

生まれることもなく、死ぬこともない、始まりもなく終わりもないもの。

禅では父母未生以前の本来の面目如何! ということで言っています。

そのような永遠なるもの。今まで自分だと思っていたのではない、本来の自己、真我というものを考えてみるのもいいかもしれませんね。

そして、それはどこか遠くになるのではなく、内側にあるのだ、とマハラジは言っています。
彼だけではなく、禅もそうですし、すべての悟った人たち、聖者は同じことを指し示しています。

永遠の真理。大いなるガイドは内側にあります。

I AM アイ アム 「私は在る」

尚 記

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