闇は光、光そのものの帰結  スー・シュタック

闇は光であり、光そのものの帰結
   「光と闇の内なる錬金術」から        by スー・シュタック
        「オーラソーマ」が、「オーラ」(光)の顕現を探求することに深く関わるシステムであり道具であることは間違いないでしょうね。
「オーラ」(光)の顕現は、「色」と「形」の姿をとって現れると思います。
もし「色」が「光」の反映であるとしたら……「形」は……もしかしたら「闇」の反映とも言えるかもしれません。
というのも、「形」は……「光」が反射される部分と反射されない部分があることによって生ずるものでしょうから。
どうやら「光」の顕現には……「闇」の働きが不可欠であるようです。
あらゆる光の顕現の世界(つまり“森羅万象”)は、「光」と「闇」の世界と言わなくてはならないでしょうね。
その意味では、「光」と「闇」の世界とは、「光」と「闇」が“対立する世界”のことではなく、「光」と(その機能を補完する)「闇」が表現する世界を表すのでしょうね。
そんなことを考えさせてくれる一文がありました。
今回は、リヴィングエナジー 5号に掲載されているスー・シュタックの「光と闇の内なる錬金術」の一部をご紹介しましょう。
        ——————————————————————– 私はある時、太陽の光が降り注ぐ8月の美しい浜辺にいて、自分自身の影とともにすわっていました。
影がスペースに入ってきて邪魔をするという感覚はなく、そこに在り、浜辺の小石にちょうどいい日陰をくれているようでした。 その場で感じた最初のインスピレーションは、闇や影は光によってナチュラルに創造されるものだということ、光によって輪郭を示され、存在しているということでした。
ですから、闇の性質を理解するためには、まず光の性質について瞑想をしなければなりません。   光は情報であり、広がり、暖かさ、熱であり、すべての存在にとっての愛と言えるでしょう。 あまねく在り、すべての存在がそれを見ることができます。 また、見えたり見えなかったりする多くの要素を含んでおり、私たちが受けとり理解することが、いまだ十分にはできていない財産かもしれません。
光はまた、私たち自身と深い関わりのある、数字、色、音のトリニティ(三位一体)と、それらの要素の間に在るすべての動きを含んでいます。 光は私たちが本当は誰であるかという真実であり、私たちの存在のスペクトル全てが内側からの火を灯しはじめた時、私たちの内に在る闇の気づきにいたることができるのは明らかです。
打ち寄せる波が海の一部であるように、波それ自体は、海の本質を変えるものではないし、海に関わるネガティブな要素でもありません闇は光であり、対極に在るものでもなく、反する力でもありません。 光そのものの帰結なのです。   私たちがもし単に闇だけに意識を向けているとしたら、私たち自身の物語の限られた部分である不完全さのみを見ることになってしまいますし、私たちの経験に質を与えている「光と闇」、その全体像を見失ってしまう危険性があります。
一体、太陽の光溢れる一日に存在する木漏れ日の美しさのない人生とはどのようなものでしょう。 深みのない理解、また自分の内側をくまなく探究することや、時にはかくれんぼをして遊ぶ機会をも持たないことと同じと言えるでしょう。   光はそのギフトとして闇を創造します
私たちは、太陽のぎらぎらする光や、変化、変容を引き起こす熱さを避けて日陰に逃れたりします。 闇に踏み込むことで、過去の安全さや慣れ親しんだ習慣や行動、自分にとってより心地良く感じられることに留まったり、また、準備ができていなかったり、変わることができないでいる苦渋の道とも距離をおくことができます。
時に、容赦なく変容をもたらす太陽の光をやさしく弱めてくれる日陰をありがたく思います。 まるで、プルーンになる経験をする前のスモモや、もと来た場所から「空」に合流する前の水の滴のようでもあります。 闇とは選択、すなわち、私たちが自分自身の最も深い求めに答え、その経験の質を選択することです。
 
         『リビング・エナジー』Vol.5(p13) ——————————————————————–
なるほど……。(-_-)
「闇」が「光そのものの帰結」だという論旨は納得できますね。
そしてその結果、筆者のスー・シュタックは「光はそのギフトとして闇を創造します」という考え方に至ったわけでしょうね。
pari 記