モーガン・フィッシャーという方は、とても幸せな方だと思います。
彼が書いた文章やインタビュー記事などに触れると、とてもシンプルでまっすぐな人となりが感じられて、ああ、こういうふうに人生を生きたらあまり不幸にはならないだろうなぁ、という気がします。(^^;)
もちろん、人生における出会いは他の人間が真似て真似られるわけもないですが、その態度というかスタンスからは学ぶことができるかもしれません。
この方の生き方には、たくさんのヒントが隠されているような気がします。
自分の体験の質にはしっかりこだわりながら、人生に対する距離感が絶妙ですね。
いかにも自立した方という印象です。
では、若くしてロックキーボディストとして有名になり、1968年から世界を舞台に活動するミュージシャンとして活躍し、日本に移住してからの生活が長い彼の記事「モーガン・フィッシャー光の画家」から、光の画家の基本テクニックに触れた部分をご紹介しましょう。
私が使う主要な三つのテクニックについて説明をします…。
カメラだけを動かす「Hikari I-43」
20年以上も前に、撮影上の小さな「偶発事故」のときに初めて使ったテクニックで、今でも最も多く使うテクニック。
興味を持った光源に、さらに目を向けることによって洗練させました。
私にとって最も微妙な光は、川や滝の上に照り映える太陽です。
肉眼で見ると目が眩んでしまい、明確に見ることはできません。
カメラは水に反射するたくさんの微小な光の線を、まるで絵筆の毛先のように、完璧な明瞭性を持って見ることができます。
画像出典:http://morganfisherart.com/
光だけを動かす「Akari G-24」
長年かけて、私は風変わりな電球をたくさん集めました。
そして、カメラを動かさずに、これらの光だけを動かすと、一風変わった形がたくさん生まれることを発見しました。
この種の「ライトペインティング(光の絵画)」が評判になり、人々は空中に自分の名前や絵を「描く」ようになりました。
しかし、私は特定のイメージを描こうとする欲望はありません。
ただ真っ暗な暗室に立って、あたかも太極拳のように、自然に起こるままに両腕と両手を動かして、自分にとっての喜びと静けさをもたらす動きを探していく・・・。
私は、その動きが、結果として永遠の美とバランスを生みだすことを信頼しています。
カメラと光の両方を動かす「Shindo H-35」
片手にカメラを持ち、もう片手に光源を持って、私は大いなる親密さを感じながら、地面の上に座ります。
(ときにはベッドに座ることも…!)光(私の手のなかにあるハート)への親密さと、それをレンズにどれほど近寄せられるかという挑戦は、ほとんど他者との官能的な体験を持つにも似た、非常に心温まる体験になることがあります。
ここでもまた、親密さと優しさの感覚が、これらの資質を示すイメージを作る方向に自ずとガイドされるに任せます。
私がフィラメントの動き(例えば、ロウソクのように見える電球の瞬き)を完全にはコントロールできないという事実が肝心です。
つまり、光の自然な流れに乗る必要があり、それをコントロールするわけではないのです。
画像出典:http://morganfisherart.com/
それは、一つひとつにつけられたタイトルについても同じで、タイトルがこれらの絵画について、見る人々が持つそれぞれの個人的解釈を制限すべきではないと感じました。
私はイメージについての解釈はしません。
たとえ瞑想中に私の全身が純粋な光に変わるような体験をしたとしても、私は自分の芸術を通じて、体験を「表現」しないと決心したのです。
私はただ審美的快感という原則にしたがうだけで、それが自然に多くの洗練されたイメージを作るように私を導きました。
この芸術形式を発展させてくれたこの国への敬意として、これらのイメージを光源となんらかのつながりのある日本語を用いることで分類しました。
例えば、ここで分類された説明は、Hikari(光:水面上の陽光の煌めき)、Akari(灯り:ランプ)、Shindo(振動:タングステンフィラメントの急速な波動)、Tamashii(魂:ビンのなかで生きている霊のように見える特別なプラズマランプを指す)です。( 「Tamashii H- 109」 )
これらの光の絵画を、すべての芸術のパイオニアたち、私に啓示を与えた自由を探求する賢者、そして純粋な探求者たちに捧げます。
「モーガン・フィッシャー光の画家」より
『リビング・エナジー』Vol.8(p65-67)
なんとなく……宇宙は広いんだろうなぁ、ということを感じさせられます。
(*^_^*)
pari 記