私たちは自分が存在することを知っています。
そして、もし自分とはなんのことかと問われれば、おそらくこの身体のことだと思っているでしょう。
だって、いつあなたは生まれてきたのだと教わって、自分の誕生日まで知っているのですから。(*^_^*)
その証拠に、たいていの人は自分が赤ん坊の時の写真まで見せられたりしてますし。
なのでもちろん、自分とはこの身体のことだと思っていて、自分はこうして生まれてきたのだから、いつかは死ぬのだとも思っています。
ところで、私たちは他人の身体はもちろんのこと、自分の身体を見ることもできますよね。
私の身体が他人にとって知覚の対象物であるのはもちろんですが、自分にとっても知覚の対象物です。
とすると、知覚の対象物であるこの身体と、その身体を知覚している自分がいることになります。
ところで、自分というのは知覚する方なんでしょうか?、それとも知覚されている方なんでしょうか?
自分が知覚される方だというのは、いくらなんでもちょっと変ですよね。
自分というのは対象に気づいている方でしょう、普通に考えて。
じゃ、身体に気づいているのが自分だとすると、気づかれているこの身体も自分だというのはなんか変じゃないですか?(?_?)
まるで映画を観ていたら、その映画に自分が出てきたみたいじゃないですか。(*^_^*)
落語の与太郎なら、「映画に出てるあれが自分なのは間違いないんだけど、じゃ観ているあたいは誰なんだ(?_?)」なんて言いそうな場面です。
こういう厄介な誤解が起こるのは、私たちはこの身体が気づいていると思いこんでいるからなんですよね。
身体というのは物質で、物質が“気づき”を所有しているなんてことはありえません。
“気づき”が物質に気づいているんです。言い換えると物質は“気づき”のなかに現れているわけです。
今回ご紹介するインタビューでは、ラハシャ博士はこのすべてを包含している「気づいている空間」のことを「ハート」という言葉で代表させていらっしゃるようですね。
もちろん、言葉は概念ですから、同じ「ハート」という言葉でも、背景にある文脈やニュアンスは使う方によって少しずつ異なってくるわけですが。
ではラハシャ博士のインタビュー記事「空っぽなハートの気づき~ハートからのカウンセリングにおけるハートの機能」から、「ハートからのカウンセリング」の原理に触れた部分をご紹介しましょう。
「ハートからのカウンセリング」の原理
1950年にこの世を去った、偉大な聖者であるラマナ・マハリシ。
彼の講話のなかに「ハートは、あなたの神の名である」という言葉があります。
私たちの外側から分離した形で神が存在しているのではないということ。
空っぽなハートは神聖であるということ。
もちろん普通の思考でそれを理解するのは、とても難しいことです。
ですが、それは理解する必要はないのです。
なぜなら、それは体験されるものだからです。
たとえばカウンセリングのなかで、この理解をどのように役立てることができるのかというと、私が「ハートからのカウンセリング」のコースで教えるとき、まるで物理学を教えるかのように「ここに二人の人間がいて、二つの物体があって、1+1=2になり、でもこの二つのものがハートの入り口を通して「空」のなかへと入っていくとき、二つの0がひとつの0になる、という現象が起きる」というように話します。
すると、物語という実態からではなく、空っぽさを通して出会う、シンクロニシティのなかで共鳴し、私たちがひとつのなかで出会うという神秘的な現象が起こりはじめます。
この空っぽな二つのハートの出会いが、空のなかで共鳴しはじめます。
ハートの広大さのなかでは、マインドのどんな物語も明らかになり、そして
自然にすべての体験が変化しはじめるのです。
これは、問題そのものを変えるのではなく、クライアントがただそのことに気づけるように、そして愛の広大さのなかで彼らの物語がどのように変化していくのかに気づいていけるようにする、とてもシンプルになやり方です。
「空」は愛です。
これは論理的ではなく経験、そしてネガティブに見ている恐怖や怒り、憎しみ、悲しみ、嫉妬といったすべての問題が、その空っぽなハートの愛のなかで姿を変えはじめるといったシフトが起きていきます。
なぜなら、それらの問題は私たちがそのリアリティを「拒絶」したときにだけ存在しうるものだからです。
この広大なハートのなかで、拒絶や流されなかった涙がとけて、流れはじめます。
これが「ハートからのカウンセリング」の原理です。
「空っぽなハートの気づき~ハートからのカウンセリングにおけるハートの機能」より
『リビング・エナジー』Vol.9(p9-10)
【この空っぽな二つのハートの出会いが、空のなかで共鳴しはじめます】
【ハートの広大さのなかでは、マインドのどんな物語も明らかになり、そして自然にすべての体験が変化しはじめるのです】
私たち個人というのは、広大な「気づきの空間」のなかの現れにすぎないのかもしれませんね。
pari 記