本当はギフトにつながる2本目のボトルが“使いたくないボトル”に…

ギフト&タレントのボトル

     「ギフトにつながるエクササイズ」  廣田雅美

       

ある意味で、私たち人間は入力を出力に変換するシステムだとも言えます。

急に何を言ってるの(?_?)、と思われます?(*^_^*)

まあ、私たち人間は、瞬間瞬間に現れるさまざまの感覚的印象を受け取りながら、それを感情的反応として出力したり、場合によっては行動的反応も出力したりする、一種のバイオロボットとして見なすこともできますよね、という話です。(^^;)

たとえば、何人かの友だちと一緒にお茶しながら、おしゃべりをしているとします。

そして、そのなかの誰か(たとえば、Aさん)が何かを言ったとします。

すると、それを聞いた自分のなかには、そのAさんの言葉に対して、ある種の想念が湧いてきたり、あるいは感情的反応が起こったりします。

と思っていると、そのなかの別の誰か(たとえば、Bさん)が、いまAさんから出てきた話題に対して、なんらかの反応の言葉を出したとします。

それを聞いたあなたは、「そうそう」と思うかもしれませんし、「あれ、その反応は私とはちょっと違うな」と思うかもしれません。

あなたにそういう反応が起こるのは、避けられません。

だって、あなたのなかには、あなたの肉体の誕生以来、積み重ねてきた個人的体験があるでしょうし、それがあなたの価値観とか反応体系を形成しているはずですから。

誕生以来のその個人的体験を“条件づけ”と呼ぶなら、そもそも誕生以前に、あなたという肉体は、ご両親から受け継いだDNAによっても定義づけられているはずです。

その意味で、あなたの全身の細胞はすべて、感覚的入力に対するそれぞれの部署の情報センサーとも言えるわけです。

もちろん、私たちの人格(=自我)は、それらの身体細胞が日々更新している全情報など認知していません。

でも、私たちというバイオロボットが、実際にDNA(「氏」)と“条件づけ”(「育ち」)によって定義されていることは否定できませんよね。

だから、仲間とお茶しているあなたには、Aさんの発言に対しても、Bさんの反応に対しても、なんらかの想念的あるいは感情的反応が起こりますし、場合によっては「でもさ・・・」などと、あなたからもおしゃべりの行動的反応が出てくるかもしれません。

ただ、こういうおしゃべりのなかで、必ずしも誰もが、同じ程度に“自分”に起こった反応を素直に、自由に表現しているわけでもありません。

それぞれがお互いの反応を見きわめながら、絶えず“自分”の反応を自己修正しながら表現(=出力)しているはずです。

その意味では、いわゆる「和をもって尊しとなす」日本の伝統では、あまり周囲からかけ離れた反応は、表現する前に自粛してしまう場合が多そうです。

たぶん、最初から多民族国家として始まったアメリカなどでは、もう少しまわりを気にせずに“自分”の思いを主張するのかもしれませんね。

初めて日本に来て、最初のオーラソーマ講座の講師となられたフィリッパ先生は、日本人受講生のあまりにも抑制のきいた、丁重で、素直な“受け容れ方”に、かえって驚かれたそうです。

「もう少し生徒から異論・質問が出てくる状態に慣れていたので・・・」というようなことをおっしゃっていました。

というわけで、われわれ日本人という“バイオロボット”は、自分のなかに起こる自然な反応を、そのまま表現することが、あまり得手ではないようです。

それは、ひとつには、謙譲の美徳が強調されすぎたのかもしれませんし、もうひとつには、自分がいちばん能力を持っている側面では、その評価能力の高さ故に、自己評価が低くなるせいかもしれませんね。

しかし考えてみると、人間が入力を出力に変換するシステムだとするなら、入力として最初に提示される言葉の意味(or「力」)は、とても大きいのではないでしょうか。

廣田雅美さんの記事「ギフトにつながるエクササイズ」から、そのあたりの機微に触れた部分をご紹介しましょう。

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みなさんは、コンサルテーションでクライアントにギフトの側面を伝えたときに、否定的な応えが返ってきたという経験はありませんか?
例えば、ピンクのボトルを選んだ方に、

「あなたはまわりの人に配慮することができる、暖かさや優しさを持った方ですね」

と伝えたところ

「いいえ、私はイライラしてすぐ怒ってしまい、ちっとも優しくないです」

といったように。

ギフトとチャレンジは、まさにコインの裏表であることを教えてくれます。
私も、初めてコンサルテーションを受けたとき、そんな風に感じたことを覚えています。

「あなたは、とっても優しい人ですね」

と、ギフトを伝えられたのに

「そんなに私は優しくない。私が感じる“優しい人”は、私よりもっと優しい。
 それに比べたら私なんて・・・」
 
と、今にして思えば、とても否定的に自分のことを捉えていました。

実際、「どうしてもっと優しくできなかったのかしら?」と思うことが何度もあったから、そう感じていたのです。
でも、そう感じるのは、優しさがあるからで、自分で思うようには表現できなかっただけで、確かに優しさというギフトは存在していたのでしよう。
でも、その当時はそうは思えませんでした。
その後、コースの受講を通して、またイクイリブリアムボトルなどのプロダクツを使いながら、あるがままの自分自身を受け入れることを、何度も練習してきました。
そして、選んだボトルは本当に自分自身の中にあるギフトだと信頼できるようになったのです。

2本目に選んだボトルを、チャレンジ&ギフトのボトルと呼んでいた頃、プラクテイシヨナーはボトルのなかに見えるチャレンジの側面についてクライアントに伝え、そのテーマについて話し合いながら

「でも、それは見方を変えるとギフトなのです」

とギフトの側面を見いだすようにコンサルテーションを進めていました。
でも、もともとクライアントのなかには、かつての私のように、自分のチャレンジの側面にフォーカスする傾向があります。
すると、チャレンジの側面を伝えるとそれが強調されてしまい、なかなかギフトの側面に意識が向けられないという状況が起こります。
本当はギフトにつながる2本目のボトルが、“なんとなく使いたくないボトル”となってしまうのです。
思いだしたくないチャレンジの側面が、ボトルを使うとまた出てきそうな気がしてしまうからです。

実際に
「初めてのコンサルテーションで“愛が足りない”と言われ、確かにそのとおりだったので、とてもショックだった」
という体験を持っている方もいます。

もちろん、ギフトの側面も伝えられたのでしょうが、その部分は記憶には残らず“自分は愛がない”ということだけが大きくなり、とても落ち込んだそうです。
こうなると、コンサルテーションを受けたこと自体がショッキングな出来事となってしまいます。

オーラソーマのシステムが進化する中で、2番目のギフト&チャレンジのボトルは、ギフト&タレントのボトルと言いかえられるようになりました。
こうした変化の過程において、プラクテイシヨナーはギフトに、よりフォーカスするようになり、クライアントもよリギフトに目をむけることできるようになりました。
すると、曇っていた空に、光が射し込むように、今まで見えなかったギフトの輝きが増して、はっきりと姿を現すようになっていきます。

       『リビング・エナジー』Vol.7(p58-59)
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「初めてのコンサルテーションで“愛が足りない”と言われ、確かにそのとおりだったので、とてもショックだった」という体験を持っている方もいます。

もちろん、ギフトの側面も伝えられたのでしょうが、その部分は記憶には残らず“自分は愛がない”ということだけが大きくなり、とても落ち込んだそうです】

いかにも、そういうことは起こりそうですね。

【オーラソーマのシステムが進化するなかで、2番目のギフト&チャレンジのボトルは、ギフト&タレントのボトルと言いかえられるようになりました】
 

なるほど。

 

私たちは入力に対して、反応しているんですね。

 

pari 記

 

 

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