目に見えるものと、目に見えないもの
最初にどうしても取り上げたかったのが、志村ふくみさんの「一色一生」という本に書かれてあることについてです。
一色一生/志村 ふくみ ¥2,310 Amazon.co.jp
志村ふくみさんは草木染めで人間国宝になった方ですが、植物から染料を取り出して糸を染めることに一生をかけている方です。
この本を読むと、自然の色から色を取り出すことの不思議、自然の営みの神秘、色の不思議さを感じます。
みなさんは糸を桜色に染めることに一生をかけている方です。
この本を読むと、自然の色から色を取り出すことの不思議、自然の営みの神秘、色の不思議さを感じます。
みなさんは糸を桜色に染めるのに、何から染めると思われますか?
桜の木からなのですが、桜の木のどの部分からその色が出てくるのでしょうか?
普通に考えると、あのきれいな桜色の花びらから染めるのだと思ってしまいます。
でも、そうではないんですね。
それは桜の花が咲く直前の頃、その山の桜の皮をもらってきて染めるのだそうです。
この話を読んだとき、一休道歌の次の句が思い浮かびました。
「年ごとに 咲くや吉野の山桜 木を割りてみよ 花のありかを」
一休さんは禅の境地から、命のありようをこの句に託しているわけですが、志村ふくみさんは染織家の立場から次のように書かれています。
その時はじめて知ったのです。 桜が花を咲かすために樹全体に宿している命のことを。 一年中、桜はその時期の来るのを待ちながらじっと貯めていたのです。 知らずしてその花の命を私はいただいていたのです。 それならば私は桜の花を、私の着物の中に咲かせずにはいられないと、その時、桜から教えられたのです
そして、次のように書かれています。
植物にはすべて周期があって、機を逸すれば色は出ないのです。
たとえ色は出ても、精ではないのです。 花と共に精気は飛び去ってしまい、あざやかな真紅や紫、黄金色の花も、花そのものでは染まりません
「色は出ても精が出ない」
つまり、そこには命のエッセンスが宿らないということなのでしょう。
色は目に見えるものですが、精は目に見えないものです。
桜の花の色は花びらに色として見えますが、その精は、その命は実はその花が咲く前に桜の幹の中に、見えないところにじっと貯められているのです。
そのことを志村ふくみさんはドイツの詩人ノヴァーリスの言葉を引用して、次のように書かれています。
植物の命の尖端は、もうこの世以外のものにふれつつあり、それ故に美しく、 厳粛でさえあります。
ノヴアーリスは次のように語っています。
すべてのみえるものは、みえないものにさわっている きこえるものは、きこえないものにさわっている 感じられるものは、感じられないものにさわっている おそらく、考えられるものは、考えられないものにさわっているだろう
本当のものは、みえるものの奥にあって、物や形にとどめておくことのできない領域のもの、海や空の青さもまたそういう聖域のものなのでしよう
聖書の、パウロのコリントの信徒への手紙にも次のような言葉があります。
「わたしたちは見えるもので はなく、見えないものに目を注ぎます。 見えるものは過ぎ去りますが、見えない ものは永遠に存続するからです」(18節)
どの世界でも、真理を追究すると、ひとつのことに突き当たるようです。
形あるもの、目に見えるものの背後には、形のない、目に見えない世界が広っているということです。
それを命というか、精というか、エネルギーというか、空(くう)というか、無というか、れぞれの言い方がありますが、そのような世界を忘れないでいたいものです。
ちなみに私が感銘を受けた志村ふくみさんの「一色一生」からの言葉、そして大岡信さんが志村ふくみさんと対談したときの文章「言葉の力」を参考文献として、その中の言葉をブログで紹介しておきます。
志村ふくみ 「一色一生」より
以前、桜でもそういう思いをしたことがありました。 まだ折々粉雪の舞う小倉山の麓で桜を切っている老人に出会い、枝をいただいてかえりました。 早速煮出して染めてみますと、ほんのりした樺桜のような桜色が染まりました。
その後、桜、桜と思いつめていましたが、桜はなかなか切る人がなく、たまたま九月の台風の頃でしたか、滋賀県の方で大木を切るからときき、喜び勇んででかけました。
しかし、その時の桜は三月の桜と全然違って、匂い立つことはありませんでした。
その時はじめて知ったのです。桜が花を咲かすために樹全体に宿している命のことを。 一年中、桜はその時期の来るのを待ちながらじっと貯めていたのです。
知らずしてその花の命を私はいただいていたのです。 それならば私は桜の花を、私の着物の中に咲かせずにはいられないと、その時、桜から教えられたのです。
植物にはすべて周期があって、機を逸すれば色は出ないのです。
たとえ色は出ても、精ではないのです。花と共に精気は飛び去ってしまい、あざやかな真紅や紫、黄金色の花も、花そのものでは染まりません。
友人が桜の花の花弁ばかりを集めて染めてみたそうですが、それは灰色がかったうす緑だったそうです。幹で染めた色が桜色で、花弁で染めた色がうす緑ということは、自然の周期をあらかじめ伝える暗示にとんだ色のように思われます。
……
夏の終わりに地上に散った花弁が、少し冷気を帯びて、黄ばんだローズ色になるのをご存じでしよう。 それは寂しい色合で捨てがたいものでしたが、精色は抜けていました。 咲き誇るあでやかな花の色のすぐ傍に、凋落のきざしがあるということでしょうか。
花は紅、柳は緑といわれるほど色を代表する植物の緑と花の色が染まらないということは、色即是空をそのまま物語っているように思います。
植物の命の尖端は、もうこの世以外のものにふれつつあり、それ故に美しく、厳粛でさえあります。
ノヴアーリスは次のように語っています。
すべてのみえるものは、みえないものにさわっている きこえるものは、きこえないものにさわっている 感じられるものは、感じられないものにさわっている おそらく、考えられるものは、考えられないものにさわっているだろう
本当のものは、みえるものの奥にあって、物や形にとどめておくことの出来ない領域のもの、海や空の青さもまたそういう聖域のものなのでしよう。
この地球 上に最も広大な領域を占める青と緑を直接に染め出すことができないとしたら、自然のどこに、その色を染め出すことの出来るものがひそんでいるのでしよう。
大岡信「言葉の力」より
京都の嵯峨に住む染織家志村ふくみさんの仕事場で話していたおり、志村さんがなんとも美しい桜色に染まった糸で織った着物を見せてくれた。
そのピンクは淡いようでいて、しかも燃えるような強さを内に秘め、はなやかで、しかも深く落ち着いている色だった。 その美しさは目と心を吸い込むように感じられた。
「この色は何から取り出したんですか」 「桜からです」
と、志村さんは答えた。素人の気安さで、私はすぐに桜の花びらを煮詰めて色を取り出したものだろうと思った。
実際はこれは桜の皮から取り出した色なのだった。 あの黒っぽいごつごつした桜の皮からこの美しいピンクの色が取れるのだという。
志村さんは続いてこう教えてくれた。この桜色は一年中どの季節でもとれるわけではない。
桜の花が咲く直前のころ、山の桜の皮をもらってきて染めると、こんな上気したような、えもいわれぬ色が取り出せるのだ、と。
私はその話を聞いて、体が一瞬ゆらぐような不思議な感じにおそわれた。 春先、間もなく花となって咲き出でようとしている桜の木が、花びらだけで なく、木全体で懸命になって最上のピンクの色になろうとしている姿が、私の脳裡にゆらめいたからである。 花びらのピンクは幹のピンクであり、樹皮のピンクであり、樹液のピンクであった。 桜は全身で春のピンクに色づいていて、花びらはいわばそれらのピンクが、ほんの先端だけ姿を出したものにすぎなかった。
考えてみればこれはまさにそのとおりで、木全体の一刻も休むことのない活動の精髄が、春という時節に桜の花びらという一つの現象になるにすぎないのだった。
しかしわれわれの限られた視野の中では、桜の花びらに現れ出たピンクしか見えない。
たまたま志村さんのような人がそれを樹木全身の色として見せてくれると、はっと驚く。
尚 記