ヴィッキーさんのこの本は、まるで映画の脚本のように印象的な場面だけで構成されています。
https://artbeing.com/cd_book/aurasoma1/BKJ02.html
ヴィッキーさんのお話自体もおもしろかったでしょうが、とてもすぐれたライターがついているのでしょうね。
読んでいても、すぐその場面の現実のなかに引き込まれていきます。
優れた物語の醍醐味です。
さて小学校に入ったばかりのころからひととびに、ここではヴィッキーさんはすでに11歳、日本なら小学校の5年生といったところです。
労働者の家庭ではあっても、けっして貧しくはないヴィッキーさんの家では、清潔好きのお母さんがとても厳格な雰囲気の家庭を作っていたようです。
おやつの時間などもあまり遊びのない感じだったんでしょうね。
そのおやつの時間には甘いモノが出ることはなかったなどと聞くと、なんとなくその時代と家庭の雰囲気が思いやられます。
これが映画だとすべてを具体的に映像で示されるわけですが、こうした簡素な文章だと、まわりのいろいろな光景を今までに見たイギリスの映像や、想像で自然に補ってしまいますよね。
その光景のなかを学校帰りの二人の夢見がちの少女が歩いて行くのです。
すると、彼女たちの会話が聞こえてきます……。
3 初めてのヒーリング
セシリアは、私のクラスメートでした。
学校にいる間中、ほとんどいつも一緒で、席も隣同士なら、遊ぶのも一緒、帰り道も一緒でした。
当時、ほとんどの子は自分の家に友達を呼んで、遊んだり、お菓子を食べたりしていましたが、私が他の家に遊びに行くのはまれでした。
というのも、継母の厳格な支配下にあって、お返しに友達を家に招待するということは不可能でしたから。
彼女は、家のんなかが散らかるのを怖れたのです。
授業の終わりの鐘が鳴ると、家に帰りつくまで、しばしの楽しい自由時間、みんなカバンをつかみ、帽子を被り、おしゃべりがはじまります。
その頃11才だったセシリアと私は、とてもませていて、つまらないおしゃべりなどにうつつを抜かさず、早々と門をくぐり、外の世界と、そこにいる生きものたちと仲良くなったものでした。
アイルランド人の両親を持つセシリアは、優しい夢見がちな魂の持ち主で、黒いまつげに縁取られた愛らしいブルーの瞳は、しばしば遠い、何かを予見するような表情を浮かべたものです。
私たちの仲はぴったりで、二人とも生命の美しさに敏感に気づいており、幼いながらも、魂の詩を表現していました。
けれども、勘違いなさらないように、私たちは、そのぐらいの子どもがするようないたずらだって完璧にしてのける、普通の健康な子どもだったのです。
生まれや育ちは非常に異なっていたとはいえ、家庭は同じように厳しかったようです。
そんなある日のこと、学校から帰る途中、セシリアがいきなり立ち止まって、私をびっくりさせました。
「そうだ、忘れるところだったわ」彼女は言いました。
「おばさんのところに寄ることになってたのよ。
ママが心配しててね。
おばさんは具合が悪くて、ずっとベッドのなかなの。
あなたもちょっと来ない?」
私は反射的に、身を堅くしました。
「セシリア、うちはお茶の時間に遅れたら大変だって知ってるでしょ。
いったいどのくらいいるつもり?」
私の家では、三度の食事同様、お茶の時間も厳しく決められていたのです。
セシリアは、横目でちらっと私を見ました。
私のことは何だってお見通しなのです。
「おばさんはねえ、いつも行くと、とってもおいしいフルーツケーキをごちそうしてくれるの」
これは、急所をぐさりと突いていました。
いかに私の家の経済状態がよかったとはいえ、お茶の時間にフルーツケーキが出ることはありえず、バタつきパン、チーズにレタスといったところが普通で、甘いものはまず出なかったのです。
「わかったわ」私はもう、すっかりお手上げ状態でした。
「でも、約束してね。あまり遅くならないって」
『オーラソーマ 奇跡のカラーヒーリング』(p24-25)
厳格に決められたお茶の時間に「バタつきパン、チーズにレタス」というのは、なにか人生がとても真面目なお仕事になってしまうような感じもありますね。(^^;)
でも、そのお母さんにとってはそれが正しいことだったのだから仕方ありません。
お母さんが悪いわけでもなし……。(-_-)
でも「フルーツケーキ」と聞かされたヴィッキーさんの期待もわかりますよねぇ。(^^;)
pari 記