ヴィッキーさんのお話は、スペイン風邪が大流行した今から百年ほど前にさかのぼります。
パンデミックというと、まさに現在は新型コロナウィルスで本格的に蘇った状況と言えます。
奇しくもちょうど今から百年前(1918年(大正7年)-1920年(大正9年))に大流行したスペイン風邪というのは記録にある限り、人類が遭遇した最初のインフルエンザの大流行(パンデミック)だそうです。
ヴィッキーさんはまさにその最中にこの地上に生を受けたのです。
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感染者は約5億人以上、死者は5,000万人から1億人に及び、
当時の 世界人口は約18億人~20億人であると推定されているため、
全人類 の約3割近くがスペインかぜに感染したことになる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/スペイン風邪
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というのですから、その猛威のほどが知られようというものです。
この極東の地日本でも48万人が死んだと推測されるそうです。
今の人口規模なら約百万人の死亡にも相当する数です。
百年前のことです、そういう時代だったのでしょう。
そのスペイン風邪で、ヴィッキーさんの実のお母さんが亡くなるのです。
ヴィッキーさんの物語はそこからはじまるようです。
1 愛しのお父さん
1918年、母がスペイン風邪に倒れたとき、父は母を救おうと、死に物狂いの努力をしました。
高熱を下げるため、濡れた毛布で母をくるむ水療法を試み、その横で添い寝をしましたが、効果はむなしく、結局、戦争と子供をたくさん生んだことが災いし亡くなりました。
母が死んだとき、父のハートも母とともに埋葬されましたが、ありがたいことに、同じ病に倒れた一番上の姉は、一命をとりとめました。
そして父の元には、ほとんど新生児同然の私と、2、3歳の間隔をおいて、ずらっと並ぶ6人の子どもが残されました。
そんな父に与えられた選択肢は、二つだけでした。
家政婦を雇うか、それとも再婚するか。
そして父は、後者を選んだのです。
ポーランド人の血を引き、小柄でがっしりした体格の継母は、ブルーグレーのとても表現力豊かな瞳を持ち、優しい表情は一瞬のうちに、獲物を狙う猫の執拗な残虐さへと変わりました。
そのまなざしは、私の胸に焼きつき、その後何年も夢に現れ、私を苦しめたものです。
彼女は父を愛し、子どもを欲しがったのですが、ついに一度も恵まれませんでした。
まだ生後数か月しかたたず、まったくよるすべのない私を、彼女はどうやら、欲しくてたまらない自分の子と思い込むようになっていったようです。
まだほんの赤ん坊でありながら、私が母のではなく、父の面影を漂わせていたことも、彼女が幻想にひたる助けになったのでしょう。
今こうして生後間もないころ、あるいは、子宮にいた頃を思いだしてみても(それは、私の持って生まれた並々ならぬ能力のひとつなのですが)そうやって思いだしてみても、最初の2、3年間は、どんな不調和もトラウマ(精神的な傷)の形跡もないのです。
その間、私は彼女の子どもとして、自然に育てられたのでしょう。
7人の兄弟のうち、私だけが彼女を「ママ」と呼び、兄や姉は「おばさん」と呼んでいました。
彼らは、最愛の母が亡くなって何か月もたたないうちに、その後釜に居座わった彼女を、よくは思っていなかったのです。
そして、継母と兄や姉との関係は、次第に緊張を増していきました。
父は、そうした状況をまったく気にとめていませんでした。
子供たちの愛情を信じていましたし、生活を混乱に陥れたくはなかったからです。
継母は、すばらしく料理がうまく、家政婦としては申し分のない人で、夫の必要とすることに絶対の価値を置き、鋼鉄のルールのもと、家の中は、すべてが規則正しく管理されていました。
けれどもそれは、子どものための場所ではなく、本やおもちゃや遊び友達は、ちり一つ落ちていない家にとって招かれざる客でした。
彼女はその点においては、ほとんど病的で、兄や姉や私が、彼女としっくりいかなかったのも当然といえば当然、彼らはまもなく、私をその冷たい氷の城に置き去りにし、一人、また一人と、自分の道を見つけて家を出ていきました。
『オーラソーマ 奇跡のカラーヒーリング』(p10-12)
何やら、最初からただならぬ気配でヴィッキーさんの物語ははじまりますね。
それにしてもヴィッキーさんの記憶は、お母さんのお腹のなかにいたころにまで遡ることができるんですね。(@_@)
いろいろな人がいるものですね。
pari 記