無理強いしない

無理強いしない
    「カウンセリングの技術」から ラハシャ・フリッチョフ・クラフト博士
        オーラソーマは自分を癒やすツールを自分が選択するという意味で、「無理強いしない」癒やしのツールだと言われます。
他の誰の診断によるわけでもなく、何となく自分が惹かれた色を選ぶという意味で、まず決定的に自分の選択であることは間違いありません。
オーラソーマのプラクティショナーにその選択の意味を解説してもらっても、それはあくまでも自分の選択の結果から導き出される解説なので、ボトルを選んだ段階でそれが他者の判断が押しつけられたものでないことは確かですに。
では、オーラソーマのコンサルテーションでは、その仕組みだけでそれが「無理強いしない」セッションであることは保証されていると言えるでしょうか?
そこがなかなか微妙なところです。
もちろん、プラクティショナー個人の経験値に基づく能力や人柄も、そのセッションでクライアントに起こる理解や癒やしに影響することは間違いないでしょう。
ではオーラソーマのコンサルテーションが、クライアントにとって実際に「無理強いしない」癒やしのツールとして実現するために、もっとも重要なことは何なのでしょうか。
もちろん、オーラソーマでは「無理強いしない」ための構造が仕組みの中に含まれています。
しかし、セッションは人間がすることです、機械の応答ではありません。
そこでのプラクティショナーの応対がある意味で決定的であるのは当然ですよね。
では、コンサルテーションが「無理強いしない」ものであることを保証するのに、最も大切なことは何なのか?
今回はその肝心のポイントに関するお話を見つけましたので、ご紹介したいと思います。
ではラハシャ・フリッチョフ・クラフト博士の「カウンセリングの技術」からその辺りに触れた箇所をご紹介しますね。
        ——————————————————————– 無理強いしない
良いカウンセラーの主要な特徴の一つは、その存在のあり方であり、どのスペースから、いつそのコンサルテーションを行うかということです。 カウンセラーがそのクライアントを変えようと思ったり、あるいはそのクライアントが間違っている、悪い、となんらの形で思った瞬間、「無理強いする」ということが起こります。 おそらく、それはエネルギーのレベルでしかないかもしれません。
しかし、私たちも知っているように、エネルギーは非常に強力に作用します。 セッションにやってくる人は誰も、それがカウンセリングであろうと、オーラソーマのコンサルテーションであろうと、自分が悪いと感じたり、無理強いされたいとは思っていません
ですから、まずカウンセラーの存在のあり方に多くの注意を向け、セッションを始める前に、そのコンサルタントが、今ここにいて、ジャッジメントしないで、ハートにとどまる、という瞑想的なスペースを見いだすことができるようにします。
オーラソーマは「無理強いしない魂のセラピー」ですので、クライアントが自分のボトルを選び、自分の処方箋を見いだすとき、このアプローチは、そのコンサルタントの気づきと瞑想性を通して、サポートとなります。
私たちはみんな無理強いされることに対してアレルギーを起こしています。 子供のときから、もちろん愛という名においてですが、どれほど無理強いされてきたことでしょう。 たいていの私たちの教育は自分を変えること、進歩させること、何かになること、に連動していました。
「何かになること」が主な病気(Diesase)になり、「あること」(Being)が忘れ去られました
心の奥深くで自分は悪いんだというふうに思いこんでしまっています。 そして自分には価値がないんだとしばしば感じます。 それだけでなく、しばしば自分のエネルギーに対してさえ無理強いし、操作し、内側のより深い智恵に耳を傾けようとしません。
ヒーリングは、私たちが愛に満ち、こころを開いて、配慮し、無理強いしない環境の中で、自分は誰かということを発見するスペースを持ったときにのみ起こります。 もし庭師に忍耐がなく、苗床の植物に無理強いして、その植物をもっと早く成長するようにとひっぱりはじめたらどうなりますか? 結局は、根と茎を分離させてしまい、その植物を枯らしてしまうことになります。 ではこの場合、無理強いしないとはどうすることでしょう? いい庭師になるにはどうすればいいですか? それは良い環境(十分な光と太陽光、いい土壌、適切な量の水、そして適切な肥料と愛に満ちた世話をする態度)を整えれば、その植物は自分でヒーリングしながら成長していくのです
……
                 『リビング・エナジー』Vol.2(p36) ——————————————————————–
なるほど。(-_-)
何かになろうとすること自体が、落ち着かなさの根源であり、病気(Diesase)なんですね。
「庭師」の話し、じつはとてもよくわかります。
恥ずかしながら、この頃やっと畑の作物というのが“モノ”ではなくて、“生き物”なんだということが分かってきたんです。(*-_-*)
ホントに、てきめんなんですから。(^^;)
pari 記

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