オーラ(AURA)
「オーラソーマ:光と言葉」より クシュブ・ドイッチマン
日本語では「オーラソーマ」と表記されるのが一般的になって、何となくこの名称が「オーラ」と「ソーマ」の合成語であることが意識に上りにくくなりました。
そうして「オーラソーマ」という言葉を知っている方には、あの上下に層に分かれたカラーボトルが思い浮かぶようになったわけです。
英語だと「aura-soma」と間にハイフン(「-」)が入って、この言葉が「aura」と「soma」の合成語であり、「aura-soma」がその二つの世界にまたがり、かつそれらを結びつける領域に関わるというニュアンスが暗示されている気がします。
通常「aura-soma」は“光の身体”を育む意識のツール、というふうに定義されることが多いように思います。
その場合は、「aura」は“光”であり「soma」は“身体”を表しているようです。
物質世界での孤立という幻想を担うわれわれの“肉体”と、宇宙いっぱいに遍満している“光”を橋渡しするもの、そこに注意の焦点を向けようとしているようです。
“物理次元”と“光の領域”の中間領域にある“光の身体”に焦点を合わせ、その“光の身体”を育み強化しようとする宇宙的意図が感じられるのではないでしょうか。
ところが、今回取り上げる文章の筆者クシュブ・ドイッチマンは、古代インドから引き継がれてきた「ヴェーダ文献」のなかに、それとは少し違うニュアンスの「soma」の定義を見出したようです。
どうやらそこでは「soma」とは“音”を表すらしいのです。
そうしてこの文章を思い立たれたのですね。
クシュブ・ドイッチマンは「aura」と「soma」について、どんなイメージを紡ぎだしたのでしょうか。
まず今回はその文章の前半、「aura」に関する記述からご紹介しましょう。
——————————————————————– オーラ(AURA)
オーラ、人間のまわりのサトルボディ(微細身)は、実際は、光が物質化するための通り道です。 もし、それに共鳴する「身体」を持っていなかったら、私たちがそのような繊細で微妙なエネルギーを吸収することはできなかったでしょう。
ルドルフ・シュタイナーはかつて、人間の身体は、実際は裏返しになった手袋のようなものだと言ったことがあります。 私たちが「内側」と呼んで意味する肉体内部の臓器はより物質的であり、私たちが「外側」と呼んで意味するオーラ・フィールドは、実際はより微細で、より透明で、私たちを聖なる光に結びつけてくれるものです。 そして、光の存在という自分の真のエッセンスについて、私たちに思いださせてくれるものです。 ですから、オーラが私たちの真の内側であり、私たちを源泉に、最後には光へと導いてくれます。
綿密に観察するなら、オーラは「外」に行けば行くほど、それだけ純化され、微細になり、存在の中に「拡散し」、それとの自己同一化も少なくなります。 なにかと自己同一化しないとき、私たちは干渉しません。 私たちは、自分自身と信じるマインドと、私たちを内と外から取り囲む生命の大洋との間に差し挟んだすべてのフィルタを通して、自分と生命との間に割り込むことはありえません。
私たちが自己同一化をしていなければ、機能することに巻き込まれ、干渉していなければ、私たちが望めば、意識の中により高位のエネルギーが自らを開示する可能性が、通り道がそこにあるのです。
『リビング・エナジー』Vol.6(p128) ——————————————————————–
なるほど……。
「aura」とは、光が物質化するための通り道だというのですね
しかし、「人間の身体は、実際は裏返しになった手袋のようなもの」というルドルフ・シュタイナーの言葉は面白いですね。
肉体のなかでは物質過程そのものが営まれているが、皮膚の外側にあるオーラのなかでは光の世界との交流が行われているということなのでしょうね。
言葉の喚起力に導かれて、そんなイメージが定着していくようです。(*^_^*)
pari 記
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