自分で自分を抱きしめてあげる!
「私のオーラソーマジャーニー」より 江田文江
私たちは現象界に人間として生きています。
つまり、人間の身体という自分の範囲があって、その皮膚の内側が自分で、その外側に自分以外が広がっている、という前提で生きているわけです。
今ふと思い出したのですが、昔「007ゴールドフィンガー」という映画を見たことがありました。
なかでとても印象的なプロットとして、全身に黄金の塗料を塗られた女性が登場したのを憶えています。
何でも映画のなかの話では、黄金の塗料で全身を覆ってしまうと、それを塗られた人間は皮膚呼吸ができないので15分位で塗料を落とさないと死んでしまうというのです。
この黄金の塗料の話が本当かどうかは知りませんが、しかし皮膚呼吸ができない状態で人間がいつまでも生きられないのは紛れもない事実でしょう。
私たち人間が、肉体の皮膚を境界面として、自分というのがこの皮膚の内側にいる存在として、その外側の環境とは切り離されているのだ、という幻想に閉じ込められているのは事実ですよね。
ところが、実際は、皮膚の外側との関係を絶たれただけで、もう自分などという生き物は生存すらできないのです。(^_-)
そういうことは、頭では理解できます。
でも、これはなかなか生きる上での日常的な実感にはなりません。
だからついつい、自分という範囲の生き物がどういう過去を負っているから今の自分になったのかとか、この生き物がどういう前途をたどるのか、といった物語のほうに夢中になってしまうわけです。
でも、じつはわれわれ人間は、肉体として誕生した当初からこういう物語に拘束されていたわけではありません。
生まれたばかりの赤ん坊は、自分が誰だなどという物語をまだ担っていません。
まだ自分が誰かを“学習中”なんです。(*^_^*)
その学習の主要な手段が私たち人間が使う言葉です。
まあ、人間というのはその言葉の魔法に取り込まれた、言葉の牢獄の囚人とも言えるかもしれません。
この言葉の魔力は、とてもとても侮ることはできません。
言葉の魔法を破る術を、言葉で編みだそうとしているかぎり、まずはそんなことは無理でしょうね。(^_-)
けっきょく、私たちはその言葉を洗練して、微妙なニュアンスの差のなかに自分の価値観の拠り所を見つけたりして、そのなかで相対的に舞い上がったり、落ち込んだりを続けなければならないわけです。(;_;)
【すべての判断を超えること】、これが実際にできさえすればいいのでしょうが、人間でいるかぎり自分はいるわけですから、無判断ですべてを受け入れるのは難しい。
人間でいるかぎり、とても難しいのです。
すると、いつかまず、そんな自分を無条件に受け入れることから、はじめなければならなくなるのでしょうね。
江田文江さんは、自分でそんな自分を抱きしめてあげることから、始められたようです。
では「私のオーラソーマジャーニー」から、そんなあたりをご紹介しましょう。
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自分自身を癒せるのは、他人ではなく、自分です。
けれど、人はひとりきりでは生きていけません。
自分自身のすべてを認めてあげること。
それが、いかに必要だったか。
自分自身を信頼することは、他者をも信頼することに通じました。
自分を愛せて、はじめて自分以外の誰かを愛せるのかもしれません。
私には娘がいます。
娘が小さな頃、特別なおまじない、「ギュウ」をしていました。
娘が私に「ママ、ギュウして」と言ってきたら、二人で「ギュウ~ッ」と言って抱きあうのです!
娘はきゃっきゃっと照れ笑いしながら大喜び。
やがて、安心して私の胸の中に身を委ねていました。
私自身も安心でき、癒されていることを発見しました。
そこには、とっても暖かい幸福感がありました。
「私は貴方のことを心から愛しているの。
その愛に包まれた私のことを、私自身も愛している」
そして、愛の暖かい光が身体の中心から広がっていくのです。
ボトルのオイルを身体にぬるとき、ポマンダーやクイントエッセンスでワークするとき、この「ギュウ」を思いだします。
身体にオイルをぬる行為は、ある意味、私には祈りに近い、儀式のようなものです。
一日の中で、たった数分間でも、自分だけの時間を作りワークをすることは、自分自身をとても大切に扱っている行為のように感じました。
自分で自分を抱きしめてあげる!
私は愛される価値のある存在だった!
ボトルと私が共鳴している。
ときには暖かい愛で包み、ときには叱咤し励ましてくれ、ときには一緒に泣いてくれる。
優しい、優しい時間に、自分の中の女性らしさが目覚めていくような充足感が満ちていきます。
そしてポマンダーやクイントエッセンスのワークを通して瞑想をする。
静かな、静かな空間。
時間の流れの感じ方が変わっていくのを感じます。
『リビング・エナジー』Vol.6(p105)
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【娘はきゃっきゃっと照れ笑いしながら大喜び】
この感じ、わかりますよねぇ。
子供だって、いや子供だからこそ、本当は何もかもわかっているんでしょうね。
pari 記