イスラエルとユダヤ人
「オーラソーマとイスラエル」から 武藤悦子
われわれ日本人が初めて「オーラソーマ」の世界に触れると、なんとなくその背後に通常あまり馴染みのない西欧文脈を感じるものです。
西欧文化というとまずはキリスト教という印象を持ちますが、でも「オーラソーマ」の場合はキリスト教のそのまた背景にあるユダヤ教の霊的伝統の中から生まれてきたものなんですよね。
オーラソーマの創始者のヴィッキー・ウォールはイギリス人であると同時に、ユダヤ教の神秘主義であるハシディズムの家系に生まれた方でした。
キリスト教でさえかなりわからない感じがしてしまうのに、ユダヤ教となるとわれわれ日本人にはとても縁が遠いような感じもあります。
ところが一方で、明治初期の頃から日本という国がとてもユダヤ教の世界と縁が深いというお話も一部にはあるようなのです。
「日ユ同祖論」という言葉を耳にされたことがありますか?
日ユ同祖論を最初に唱えたのは、明治初期に日本に住み、日本人の歴史や風俗、習慣などを観察したN.マックレオドというスコットランド人貿易商の方だそうです。
きっと、ユダヤ文化を知っていた彼は、遠い日本の地であまりに類似した風習に出会って非常に驚いたのでしょうね。
日本初代の文部大臣森有礼が伊勢神宮に安置されている三種の神器の1つ、八咫鏡の裏を見たとき、その裏にヘブライ語で『出エジプト記』3章14節の「我は有て在(あ)る者なり」と刻まれていたと述べたという話もあります。
以後、日本を訪れたユダヤ人など今では多くの方々が言及していていて、あまりにも大量の傍証があるので、初めて聞くとちょっとショッキングなほどです。(^^;) http://ja.wikipedia.org/wiki/日ユ同祖論
まあ、現段階では「言わぬが花」の段階のお話なのかもしれませんね。
それはともかく、今回は何度もイスラエルを訪問され、現在正式に先生に付いてカバラを学んでおられる武藤悦子さんの記事「オーラソーマとイスラエル」からの一部をご紹介しましょう。
もちろん、現在のイスラエルについての報告です。
「日ユ同祖論」などは一切関係ありませんのでご安心ください。(^^;)
——————————————————————– オーラソーマとユダヤには、大きなつながりがあります。 ヴィッキー・ウォールのお父さんはユダヤ教のハシディズム派の教師であり、ボトルにもイスラエルに関連するものがいくつかあります。
私たち日本人にはイスラエルやユダヤにはなじみがなく、理解しづらいものだと思います。 私はイスラエルに度々足を運び、ボトルに関連する土地を訪れたり、カバラやユダヤ文化と出会う機会に恵まれました。 今回は、そのシェアとオーラソーマとの関連を考察したいと思います。 イスラエルとユダヤ人
まずユダヤ人の定義ですが、基本的にユダヤ教を信仰しているユダヤ人のお母さんから生まれた子どもをユダヤ人としています。
ユダヤ人の歴史は、かつて神から与えられたカナンの地(現在のパレスチナ地方)に住む人たちが、長い歴史の中で、他国からの征服や侵略のために世界中に散らばり、その地で迫害を受けた末、第二次大戦後の1947 年にイスラエルが建国されました。 現在ユダヤ人はイスラエルのみにいるのではなく、上記の定義によるので、ヨーロッパや北米など世界中にいますし、人種もさまざまです。
聖書(ユダヤで聖書という場合は旧約聖書を指し、キリスト教の場合は旧約・新約どちらも指します)はユダヤ・イスラエルの歴史と言えるほど関係が深いものです。 オーラソーマでは聖書の「十戒」、「アダムとイヴ」はカバラと、「ノアの方舟」はオリーヴグリーンとのつながりもありますし、大天使などの記述は多数みられます。 大天使の名前は、ほとんどユダヤの言葉であるヘブライ語で、「ミカエル」などの「~エル」は神という意味です。
また、「水をわけなさい」というヴィッキーが受け取ったメッセージも聖書の中にある言葉です。
ユダヤの祝日は「ハヌカ」という光の祭りや「ペサハ(過ぎ越しの祭り)」など多数あり、これもまた聖書に基づく宗教的伝統行事です。
私は、かつて過ぎ越しの祭りに出たことがありますが、親戚縁者が集まり大きなテーブルを囲み、聖書の出エジプト記を朗読し、「マッツァ」という種なしパンと「セーダプレート」という特別なお料理を、みんなで一緒にいただくというものでした。 これは、神が過ぎ越して行き、災いが及ぶことがなかったという聖書のお話に基づくものです。 今もなお3,000 年も前の神代の時代の伝統を踏襲しているユダヤの文化に深い感銘を受けました。
この様子は、レオナルド・ダ・ヴィンチによって、イエス・キリストが弟子たちと過ぎ越しの祭りの食卓を囲んでいる「最後の晩餐」に描かれています。 この「最後の晩餐」の部屋もエルサレムにあり、私も訪れてみましたが、とてもシンプルな場所でした。この部屋は「ペンテコステの部屋」とも呼ばれ、イエスがこの世を去った日から五旬節目の日に弟子たちに聖霊が降りてきたとも伝えられています。
『リビング・エナジー』Vol.6(p50-51) ——————————————————————–
なるほど……。
「最後の晩餐」が行われた場所が、今もなお保存されているんですね。(@_@)
pari 記
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