責任に関する問題

糖尿病のエネルギー分析 責任に関する問題                        「微細解剖学への旅(2)」 by メアリー
        前回の「糖尿病のエネルギー分析 愛に関する問題」は、どのように読まれましたか?
「糖尿病患者の一般的な問題は、『糖』を『愛』の代用品にしてしまうこと」だという知見には、驚かされましたね。(@_@)
甘さを求めるということには、人生が甘いものであることを願う人間の期待が反映されていたとは……。
あまりに端的で、単純すぎるようにさえ思われましたが、でも何だか「いかにも(-_-)」と心底納得してしまところがありました。
人間のさまざまなエネルギーバランスのすべての異常には、じつは何かそういうごく単純素朴な心理的要因があるのかもしれませんね。
それは恐らく、無限の安楽と無責任が保証されていたかのようなお母さんの胎盤のなかの記憶から、この不自由な物理世界に入ってきたときのその心理的ギャップが何らかの憤慨となって、その後の人生に反映されてくるのかもしれませんね。
ついでメアリー(中村裕恵)さんの「糖尿病のエネルギー分析」は、人間の成長過程で避けて通れない「責任」という問題を取り上げています。
これもまた、もしかしたら、ごくごくわかりやすい心理的原因が背景となっているものなのでしょうか。
ではメアリーさんの記事「「微細解剖学への旅(2)~内分泌系~」」から、今回は「糖尿病のエネルギー分析」のなかの「責任に関する問題」をご紹介しましょう。
         ——————————————————————– 糖尿病のエネルギー分析(2)
責任に関する問題

糖尿病は、ほとんどといっていいほど責任問題がかかわる不調です。 この問題にはさまざまな形があり、次にあげるものはすべて、糖尿病の原因として考えられるものばかりです。
・他人のために責任を取らせられることに憤慨する。  これは、一人前になるのを拒否しているか、無責任さを否定しているためで、  責任感のある人に埋め合わせをさせることになる。
・「親であろうとする」親の要求に憤慨する子供。  実際の親が、子供が求める世話や注意を与えるほど感情的に成熟していず、  自分の不手際を子供に穴埋めさせたり、子供に理解してもらおうとする  場合、子供は親子の役割が逆転したことに憤慨し、幼年時代の終焉が早す  ぎたことに恨みをもつようになる。
・だれか代わりを頼みたいのに、一人で責任を引き受けなくてはならな  かったことに対して憤慨する。  これは人の自然な成熟過程を完全に無視し、引き伸ばす。
・支配力を失うのを恐れて、他人が成長して責任を果たすのを妨げる。
・つぎつぎに無責任な行動や態度を弁解し続ける。  すると、弁解している本人はその本来の源に向けられるはずだった感情エネ  ルギーの犠牲者となる。
こうしたあらゆる責任問題が膵臓に襲いかかります。 というのも、膵臓は車の燃料タンクのようなものだからです。 タンクは一人のドライバーが必要とする燃料しか用意していません。 いいかえると、インスリンは一種のエネルギーで、体は一人分の仕事をするだけのエネルギーしか用意していないということです。 憤りのエネルギーは、割り当てられた一定量のエネルギーの配分がどうも狂っているらしいという信号になります。 この信号のために、信号に反応するインスリン(エネルギー)の生産が混乱をきたすのです。 (「健康の創造」C・ノーマン・シーリー、キャロライン・M・ミス著より)

                 『リビング・エナジー』Vol.5(p61) ——————————————————————–
なるほど……。
人間の身体の臓器である膵臓とは、車の燃料タンクのようなものだったんですね。
無限のエネルギーと自由が保証されているのかと思っていたのに、じつは一人分のエネルギーしか用意されておらず、しかもそれを扱う知恵さえも成長の過程で身につけなければならなかったとは……。(-_-;)
人生とは、なかなか過酷なゲームとも言えるような。
「行きはよいよい帰りは怖い」といったところもあるかも。(^_-)
pari 記

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