イエス・キリストの人生の実践
地上で肉体を持って生きることの苦しみ、その苦しみが極まるときには、いったいなぜ人生というようなものがあるのだろう、と悩むことさえあるでしょう。
ところで、実際、なぜ人生なんてものがあるんでしょうね。(?_?)
あー、いやいや、これは余計なことを言いました。(^_-)
まあ、人生に興味をもった存在がいて、そのひとが人生というものに遭遇することは間違いないでしょうね。
それはさておき、元々物質ではない意識存在たちが自分が肉体だと思い込んで欲望と快楽の虜になり、それゆえに恐れと苦痛にまみれている世界がこの物理世界だといっても、当たらずといえども遠からずかもしれませんね。
そういう存在たちで充満している世界に、あなたたちは本当は物質的存在ではないという福音をもたらすために、わざわざ地上に降りてきてくださった方がいらっしゃるわけですよね。
その代表格のおひとりが、言わずと知れた歴史上のイエスキリストでしょう。
そのキリストの実践が、光の世界と物質の世界のはざまをつなぐための、過酷なまでに両極端に引き裂かれた奇跡の人生であったことは歴史上の事実です。
オーラソーマのボトル55。
http://aura-soma.co.jp/products/equi/B055.html
このボトルを「キリスト」と名づけたのは、ヴィッキーさんだったのですね。
このネーミングにはどんなニュアンスが込められていたのでしょうか。
ドミニク・ヨーマン氏の記事「オーラソーマ 光と身体」から、そのあたりに触れた部分をご紹介しましょう。
——————————————————————– イクイリブリアム55番はキリストと呼ばれています。 このタイトルは多くの魂の探求をしたヴィッキー・ウォールによるもので、彼女のインスピレーションによって、そう名づけられました。 このコンビネーションは上の層がクリアー、下がレッドです。 これはとても直接的なあり方で、光とボディーのテーマを示しています。 レッドはグラウンディング、物質世界、私たちを地に根づかせる肉体、現実というこの世界で私たちが互いに影響し合うことを可能にする乗り物です。 クリアーは純粋な光、純粋なエネルギーです。 キリストのコンビネーションにおいて光と物質、クリアーとレッドが一緒になります。
イエス・キリストの人生の実践がこれに対する証拠となります。 彼は神の子でありながら人間の女性から生まれ、物質界とスピリチュアルな世界の両方に存在しました。 肉体は十字架で死にましたが、光の身体が立ち上がり、すぐに上昇しました。 光になると、重力はそれをとどめることはできません――それは体を持っていません。 キリスト教徒が毎週集まって、ミサを行うのは興味深いことです。 肉体は純粋なエネルギーであることを妨げます。 しかし、そうするとこれはまた重要な点です。 私たちは肉体にいるためにこの世に生まれてきたのであって、それから逃げるためではなく、それを超えていくためです。
キリストをよく犠牲と関連づけて考えます。 犠牲の本来の意味は、何かをあきらめるということではなく、「聖なるものにする」という意味があります(この肉体としての身体を知ることは、私たちが光の身体、つまり純粋なエネルギーであることを知ることです。 アインシュタインがE=mc2という公式で表した真実は、物体とエネルギーは入れかわることができるということです)。 オーラソーマはボトルの中に実体となった光と色です。 私たちは肉体として表れる光と色です。 オーラソーマのエネルギーを私たちに与えることによって、光として私たちが生きることを覚えていることができます。
『リビング・エナジー』Vol.4(p79) ——————————————————————–
なるほど……。
犠牲(sacrifice)という言葉には“聖なるものにする”というニュアンスがあったんですね。
まあ、イエスキリストの人生そのものが、地上の生き物たちに同化している光の存在を、“聖なるものにする”ための犠牲だったのかもしれません。
pari 記
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