B9 クリスタルの洞窟/ハートの中のハート その2
http://artbeing.com/aura-soma/reading/tarot-B009.html
前回、「0番のボトル「愚者」(フール)で始まった人生の旅は、ここでコペルニクス的転換を迎えます」と書きました。
これには二つの意味での「コペルニクス転換」があります。
ひとつは、人生に無意識だった愚者が、ここで「意識的な」問いかけ、「私は誰か」という問いかけを意識の中に持ったことです。
このことは、この9番の上の色にターコイズ(「私は誰か」という問いかけ)が来ていることで示されています。 この「隠者」とは「賢人」を表しています。
賢人という人は、おしなべて、「私は誰か」という問いかけに目覚めた人だとも言えます。
インドの賢人、ラマナ・マハリシも「私は誰か」という問いかけによって悟りを得た人です。
禅の公案にも「父母未生以前の本来の面目如何?」という問いかけがあります。
これは要するに、真の自分は誰なのか、という問いかけです。
このように、この9番のボトルはターコイズの「自分は誰か?」という問いかけを意味していますが、それがこのボトルのメインテーマ、「真理の探求」なのですが、そこで、真理を探求するためにどうするのか、ということがここでのもうひとつの「コペルニクス的転換」になります。
ここでのもうひとつの「コペルニクス的転換」とは、これまで皇帝、法皇、恋人、戦車、正義などの外なる権力、規律、信念、セクシャリティ、責任など外なる世界の探求から、ここでは内なる世界の探求へと急転換します。
それは、「私は内なる声に耳を傾けます」ということです。
ここで外なる声、つまりは知識や哲学的探求を行うなら、哲学者にはなっても、隠者、賢人にはなりません。
哲学的探求はマインドの道です。頭を使って物事を考えていく道です。
しかし隠者はどのようにしているのでしょうか? そこに、このカードが示唆している隠者の道があります。 http://artbeing.com/aura-soma/reading/tarot-B009.html
隠者は目を閉じています。
それなのにランプを手にしています。
目を閉じているなら、ランプの灯りはいらないはずです。
空には月がかかっています。
これは何を表しているのでしょうか?
隠者は、あたかも洞窟から出てきたかのようです。
しかし、実はその洞窟は、外の世界から内なる世界への入り口なのです。
洞窟の外は太陽ではなく、洞窟の背後の山の上に月が上っています。
それは外の世界に対して、内なる世界を表しているようです。
外の世界の探求では、目を開けて、観察し、マインドを使って分析していきますが、内なる世界の探求では、目を閉じ、そこにあるものごと、感じることをただあるがままに受け入れていきます。 ハートがその内なる世界への入り口になります。
マインドからハートへ、そして内なる瞑想の世界への旅が、ここでの隠者の道となっていきます。
人生とは生きるべき神秘であって、問われるべき問題ではないのです。
それが問題を考える哲学者と生きることの神秘を生きる神秘家(隠者)との違いです。
隠者が灯しているランプの灯りは、「意識」の光を表しています。
その意識の光は、精神的な無意識の暗黒を照らすランプであり、自分の感情や欲望を理解していく旅でもあります。
心理学の分野では、ユングはこの旅を個性化の旅とも言っています。 それは自分だけの独自の自己となるプロセスであり、個人的体験であり、孤独な体験となっていきます。
自分が何者かということを発見するためには、私たちは知らず知らずのうちに他者に投影している自分自身の部分に気づき、そうして以前は他人の中だけに見ていた可能性や欠点を自分自身のこころの内面の奥深くに見るようになるのです。
その答えは外的世界にあるのではなく、私たちの内側にあるのです。 それは静けさと孤独の中でのみ答えが得られるものでもあります。 私たちは一人ひとり、 自分にとっての内なる光を見いださなければならないのです。
仏陀はこのことを自灯明、法灯明というふうに言っています。
またカードに見える洞窟の背後の山と月も「意識」を象徴しています。
山は意識の高みを表し、月は物事をあるがままに、鏡に映すように観照する意識を表しています。
手にした杖には7つのチャクラが輝き、そこには蛇が上に這い上がってきています。 それはクンダリーニのエネルギーが上昇し、それぞれのチャクラが目覚めていっていることを象徴しています。
隠者の旅は、その内面の旅であり、意識の覚醒への旅でもあるのです。
・・・というわけで、以下のリンクより今日のメッセージをもらってみましょう。
尚 記
Twitterブログパーツ