スーパー・アセンション
“精神世界本”、別な言葉で言うと“スピリチュアル本”というのは、要するに生きることに疲れた心が、最終的な平和を得られるような理解に至るために求める本、とも言えるでしょう。
人が“精神世界本”を求めるころには、もう充分に生きることに、そして生きるために努力することに疲れているわけです。(^^;)
もちろん、ここで言う“生きる”とは肉体のサバイバルのことであり、また肉体のサバイバルのために奮闘するマインドの努力のことです。
“生きる”とはいったいそれほどの努力に見合うものなのか、そもそも“生きる”だけの意味はあるのか?
いや、翻って考えてみれば、“生きる”とはいったい何のことなのか?
いやいや、そもそもいったい、“何”が生きているのか? (?_?)
そういう、それまですべて自明なこととして、特に考えてみるまでもないと思い込んでいたことが、すべて疑問になってくる? (-_-;)
大なり小なり、そういう前提があって、求め始めるのが“精神世界本”であり“スピリチュアル本”だと思います。
そのように“生きること”に疲れたとは言っても、初めのうちはマインドも元気なので、いろいろ複雑な理論や構造にも対応できます。
そういうものを理解しようというタフネスも備えているわけです。
でも、いつかはそういう“スピリチュアル本”を求めることにも疲れてくる。
だんだん、マインドの“バネが緩んでくる”わけです。(*^_^*)
そうなってくると、もう難しい本には対応できなくなります。
ただただ、直感的に理解し納得する、いわば一種の“論理的美的感覚”とでも言うしかないようなもので対応しようとするようになります。
まあ、そろそろマインドのエネルギーも尽きかけているのですが、その最後のエネルギーでさまよいつづけているわけです。
そういうときには、ただただ優しくてしかも納得できるお話を求めます。
どういうお話に納得するかは、これまたそのマインドの趣味の問題であるわけでしょうが……。
今回ご紹介する本は、そういうときに出会う本のひとつだろうと思います。
そういうときはもう単純な話の方が“好き”になり始めているわけですよね。
そして、あまりにも単純で、理性ではとても“信じられない”ような、例えば、こんな話の方が、かえって本当らしく聞こえるようになっているわけです。
<これこそ、悟りを開いた者の認識です。
すべての人々が、あらゆる場所で、常に、最善を尽くして生きているのです。 例外はありません。 ある人の最善は別な人の最悪だ、などと言う人もいるかもしれません。 しかし、これは比較であり、価値判断であり、非難であって、愛と許しにもとづいた考えではありません。 私たち自身の心の安らぎのために、世界についての結論は一つにしておいた方がよいでしょう。 すべての人が常に、あらゆる場所でそれぞれ最善を尽くしているのです。 アセンダントはすべて善であり、すべて愛であり、遍在するものであり、全知であると結論づけた時、その結論からただちに派生する認識がこれなのです。
少し別な言い方をすると、「常に善だけが存在する」のです。 人生に疲れきった心にとって、このような単純な思いを抱くというのは何という慰めでしょうか>
これで何も問題ないではないか、と思われてくるわけです。
もう少し、立ち読みしてみましょうか。
——————————————————————– この世界には、責めるべき人など、文字通り一人も存在しません。
いかなる意味においても、咎めるべき人もいなければ、裁くべき人もいません。 私の様々な願望があって、私のためにだけ私の宇宙をつくり出しているのです。 あなたにはあなたの様々な願望があって、あなたのためにだけ存在する、あなた自身の宇宙をつくり出しています。
こうしてつくられた私たちの宇宙の多くが非常に類似していて、多くの共通点を持っているように見えるのは、幸運にして有用な偶然の一致であり、その共通性によって人間はかくあるものという人間性が規定されているのです。
[大多数の人々が持っている宇宙と波長の合わない宇宙を持った人びとは、精神病院か監獄に行くことになります]。(p174) 『スーパー・アセンション』 ——————————————————————–
ふーむ。(-_-;)
そう……それぞれの人が、それぞれ一生懸命に、最善を尽くして、自分の夢を見ているわけですよね。
その個々の夢がリアルかどうかは別にして、それしかありえないんじゃないでしょうか……。
pari 記
Twitterブログパーツ