ダライ・ラマ瞑想入門 その1
ダライ・ラマ瞑想入門―至福への道/ダライ・ラマ14世テンジン・ギャツォ ¥2,625 Amazon.co.jp
“Path to Bliss
A Practical Guide to Stage of Meditation” というのが原題で、至福への道 瞑想状態に至る実習ガイドについての本です。
これはダライ・ラマ14世が1988年の春にダラムサラのお寺で行った説法がもとになっていて、「菩提道次第の安楽道」に基づきチベット語で話された法話です。
この説法は毎年行われているそうで、その説法をめあてに、インド各地から多くのチベット僧や在家の人々が集まり、チベット人に限らず、世界中から千人を超える人々がやって来てお話を聞くのだそうです。
菩提道次第というのは菩提(悟り)を得る方法を段階的に説いた教えで、チベット仏教のすべての教えを含む最も優れた教えとされています。
菩提道次第は11世紀にインドからチベットに招かれた偉大な学僧アティーシャの「菩提道灯論」にはじまり、この短いながら仏教の教えのすべてを含むこの論書を下敷きに、その後、多くのチベットの聖者が論書をものにし、とりわけツォンカパ大師の「菩提道次第公論」がアティーシャの流れを受け継ぎつつ、深い哲学的見解によって、仏教のあらゆる教えを矛盾なく詳細に解き明かした金字塔とされているそうです。
このダライラマの瞑想法入門は、そのツォンカパ大師の「菩提道次第公論」の真髄をわかりやすく解説した説法にもなっています。
非常に分析的、段階的に仏教の教えが説かれ、かつその瞑想の実践法まで説かれています。
昔なら口伝として、あるいは秘伝としてごく一部の弟子に説かれていたものが、このように一般の人でも聞けたり、手に入れることができるというのはほんとうに恵まれた社会です。 問題はそれを理解し、実践することができるかどうかです。
それを理解し、実践するためには、どんなに情報が得られたとしてもなかなか難しいことで、やはりそこには実際に導くことのできる師の存在の大切さは、今も昔も変わりません。
このダライラマの瞑想入門の本でも、瞑想をするにあたっては、まず上師を正しく信頼し、よりどころとすることが大切で、そのための瞑想の方法も書かれたいます。
それはともかく、アティーシャについては、OSHOが“Book of Wisdom”(智恵の書)でも詳しく語っている人で、ハート瞑想でも有名な人です。
アティーシャの知恵の書〈上〉―OSHO講話録/OSHO ¥2,604 Amazon.co.jp
このダライラマの瞑想入門の本は、一つひとつの瞑想の段階を、初心者にもとてもわかりやすい言葉で語ってくれています。
その瞑想法のなかに、「有暇具足の瞑想の順序」というのがあります。
「人間として有暇具足を得た事実は何を意味するのか、本質からきちんと理解する」修行です。
ここでいう修行というのは、瞑想のことです。
有暇具足というのは、修行する時間をもった人間に生まれて、かつ悟りを得るための条件を持って生まれていることを言います。
そのように悟りを得ることのできる機会を持った人間として生まれた意味と幸運に思いを致し、そのことを十分本質から理解しなさい、ということなのです。
そして、この瞑想をする際には、以下の順序で、人間に生まれることがいかに難しく、稀であるかということを考察するのです。
1.人間として生まれることがいかに稀であるか、あらゆる類推を用いて考える。 2.人間として生まれることを、本質的性質という観点で熟考する。 3.人間として生まれる原因がいかに稀か深く考える。
この瞑想をすることで、なぜ修行すべきかということを自分が納得する助けになるといいます。
これらは、まず瞑想をするにあたっての動機づけについて思いを致すということです。
瞑想をしていくには、まず最初に「本当に瞑想したい」と思うことが大切で、真剣に瞑想していくための準備ともいえるものです。
それよりも、もっと端的に瞑想の必要性を思わせられるのは「実際に死を瞑想する」という方法です。
実際に死の瞑想をするときには「死は確実に訪れる」「いつ死ぬか予測がつかない」「死ぬとき助けになるのは法だけである」という三点を考察することになります。
そこではパポンカの「無常の瞑想法」の詩が引用されています。
「朝は永遠に訪れると思い いかなる準備をしようとも すぐにもこの地を去らねばならぬときが来る 仕事、食事、飲みもの、何ごともないおえぬうち たったいま、この場所から、どうすることもできずに連れ去られるときが来る
力ないこの手が 衣服から、友の手から 引き離されるときが来る 今日をかぎりの最後の床に 老いて倒れる樹のごとく 横たわったまま動くこともできず
はじめておのれの死骸を目にするときが来る 身体はかたく岩のよう 最後の床につつまれて この服もきょうをかぎり 二度と着ることもない
誰とも話せず やりきれなさと苛立ちにつつまれる日がやってくる 渾身の力をふり絞っても 最後の言葉とくりごとが 渇いた口からわずかに漏れるのみ」
死は無常の極みです。
仏陀が最初の説法(初転法輪)で四つの尊い真理(四聖諦)を説かれたとき、最初に無情についての説法がありますが、この無常の観想が瞑想にとってはとても大切になります。
ここでダライラマが語っていることは、死すべき運命の人間にとって、瞑想することがいかに本質的で、かつ大切なことなのか。そしてまた、瞑想が死に立ち向かう助けになるということです。
尚 記
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