瞑想について その1

最近は瞑想ブームだといわれています。
一時期、瞑想といえば、ある新興宗教のヨガ的なイメージによって敬遠されたりもしたのですが、それをハリウッドから始まった、激しい動きを伴うホットヨーガがブームを巻き起こし、その忌まわしいイメージを吹き飛ばしてしまったかのようです。
そして、今や人々の関心は、次第に静かな瞑想ヨーガや坐禅に移りつつあるようです。
人が瞑想するときというのは、古くはヨーガや坐禅などの修行の一貫として、悟りを求めてでした。
また、一般には心の平安を求めたり、健康のためであったり、潜在能力の開発のためであったりと、さまざまな目的がありました。
仏陀が瞑想に求めたものは、人間の生老病死などの四苦八苦からの解脱であり、白隠が坐禅に励んだのも、子供心に聞かされた死後の地獄への恐怖でした。
現代社会では、とりわけ日本ではうつや自殺が他国に比べても多く、自殺者の割合は先進国でも第一位です。
厚生労働省では「自殺・うつ病対策プロジェクトチーム」を設置して、その対策に乗り出しています。
その統計によると、自殺者は平成21年で3万2千人を超えて交通事故死者数の6倍であり、うつ病等の気分障害の総患者数は平成20年で104万人を超え、12年前の2.4倍に増加しています。
どうしてこれほど多くの人がうつ病になったり自殺するのでしょうか。
それは人生で生きていくことにまつわる悩みによるもので、現代社会がそれだけ悩み多き時代になってきているという現象ともいえるでしょう。
その悩みを瞑想が解決してくれるとすれば、まさに瞑想がブームになるのもうなずけるところです。
このような瞑想ブームの背景には、現代社会での生き方、資本主義社会に適応していくことへの疑問、生活の便利さや経済の豊かさを求めて科学の発達を優先させるあまり、自然を忘れてしまった生き方を見直そうという動きがあるように思います。
悩むというのは、それだけ真剣に生きようとしている証でもあり、瞑想はよりよく生きるにはどうすればよいかということを真剣に問うことでもあります。
それは、自分らしく生きたい、自然であるがままの自分を取り戻したいという魂の叫びのようにも感じられます。
では、瞑想はどのようにその現代人の悩みに応えてくれるのでしょうか?
瞑想することで何が得られるのでしょう?
「瞑想」といってもさまざまな定義があります。
一般に日本人には瞑想とは静かに坐って無念無想になることだという考えがあり、坐禅が瞑想の代表のように思われがちです。
禅を西洋にも紹介した鈴木大拙は、禅というのは何にもとらわれないことで、「すべての不自然の妨害からの離脱である」としています。
そして「空の鳥は何を瞑想し、水中の魚は何を瞑想するか。ただ飛び、ただ泳ぐ、それだけで十分ではないか」と語っています。
しかし、鳥や魚のようであればよい、というだけなら、わざわざ人間が瞑想する意味はどこにあるのでしょうか。
悟りを得たインドの神秘家で、仏陀と並び称されるOSHOは瞑想を次のように語っています。
彼によると瞑想とは「存在」とひとつになることであり、醒めて気づいていること、「観照」することがその神髄だといいます。 そして瞑想することによって大きな愛が生まれる、と語ります。
少し長くなりますが、彼の言葉の中に瞑想の本質が語られていますので引用してみます。
「瞑想は冒険だ。
それは、人間の精神が引き受けることのできる、もっとも偉大な冒険だ。 瞑想とは何もせずにただ在ること ―― 行為も、思考も、感情もない。 ただ在るだけで、それがまったくの喜びとなる。
何もしていないのに、この喜びはいったいどこからやってくるのだろう。 それは、どこからともなくやってくる。 あるいは、あらゆるところからやってくる。 それには原因がない。
なぜなら、実在は「喜び」とよばれる素材によって造られているからだ」

「何もしていないとき ―― 肉体的にも、精神的にも、どのレベルにおいても―― すべての行為が止み、自分がただ単に在り、存在そのものであるとき、それが瞑想だ。
それを為すことはできない。 修練することはできない。
それは、理解しなければならないだけだ」

「ひとたびあなたの本性が乱されない方法に気づけば、徐々に自己の本性が妨害されず、しかも注意深くありつづけながら、ものごとをすることができるようになる。
それが瞑想の第二の部分だ。
最初は、いかにして「ただ在る」かを学ぶ。 それから、単純な行為を学ぶ。
自分自身の中心に定まったまま、床を掃除したり、シャワーを浴びたりする…。そうしているうちに、より複雑なこともできるようになる」

・・・引用はまだ続きます。
次回をお楽しみに。
尚 記
     
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