OSHOの足跡

これまでの和尚アートユニティの活動を振り返ってみると、そこにはスピリチュアリティのテーマが流れていることに気づきます。
和尚アートユニティでは、OSHO の絵をシルクスクリーン版画として紹介し、アーティストとして紹介していますが、そのOSHOが行っていたことは、真のスピリチュアリティを現在に蘇らせることだったといえるでしょう。 http://oshoart.com/
そしてユニティインスティチュートは、その真のスピリチュアリティをいかに日常生活に活かしていくかということを提供しているといえます。 またオーラソーマは、ヴィッキーさんが言うように「新しい革袋に古いワインを入れたようなもの」であり、古代からの叡智、スピリチュアリティを新しい形で伝えているといえそうです。
そこで、これまで培ってきた経験をもとに、スピリチュアルな成長を目指して生きる人たちに役に立つ会社として成長していきたいと願い、「スピリチュアル水先案内」というテーマで、現代におけるスピリチュアリティの意義と現状、歴史について考察してみようと思い立ちました。 今後もシリーズとしてメルマガ、あるいはブログにて連載の予定です。
その第一回目は、現代のスピリチュアル水先案内の巨匠ともいえる、OSHOの足跡について考察してみたいと思います。 もちろんここで紹介できることは、ごくさわりでしかありません。
水先案内、というと表面的なガイド役という印象になってしまいがちですが、OSHOは、まさにそのスピリチュアリティの神髄を語った人です。
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OSHOの経歴について、少し紹介します。 彼はダライ・ラマやクリシュナムルティなどと並ぶ現代のスピリチュアルリーダーとして世界的に有名です。 1931年12月11日にインドに生まれ、1953年3月21日、21歳の時に光明を得ました。
1966年までジャイプール大学で哲学科教授をつとめた後、インド全国を旅して講話を行い、主要都市の講演では5万から10万人の聴衆を前に語りました。 1974年にはインドのプネにコミューンが創設されました。世界中から集まった彼の弟子たちや探求者に語りかけた講話が、650冊以上の本として出版、30カ国語以上に翻訳されています。
彼は仏陀やキリストをはじめ、ヨガ、インドの瞑想技法、禅など、古今東西の宗教、哲学などを題材に縦横無尽に語り、まさに人類のこれまでのスピリチュアリティを現在に蘇らせたといえます。何より素晴らしいのは、彼自身が仏陀やキリストなどと同じ悟りの境地で、自らの体験をもって語っていることです。
私が初めてOSHOに会いにいこうと思ったのは、私が禅に凝っていて、あちこちのお寺で坐禅などをして、瞑想を指導してくれる人を探していた頃でした。 禅では自分を指導してくれる師を見つけることが大切で、その頃の私は、お釈迦さんの時代に生まれて生きている仏陀に会いたかったなぁ、と夢見ていました。
そんな頃にOSHOの本を読み「ひょっとしてこの人は仏陀じゃないの?」と直観したのがOSHOに会うことになったきっかけでした。
彼が仏陀の言葉を語るとき、その言葉はまさに仏陀その人が語るように胸に訴えかけてくるものを感じます。 それは同じ意識、同じ覚醒に至った人にしか語り得ない言葉が、誰かの引用の言葉としてでなく、彼自身の言葉として語られるからなのです。
探求者が真理に至るには多くの道があるといいます。 ちょうど山に登るにはいろいろな登り口があり、でもその行き着く先は同じ頂上であるように。 頂上に到った人から見れば、行き着く先の真理は同じであり、人それぞれの探求のタイプがあり、真理に到るそれぞれの道があるだけです。
そういう意味ではOSHOはそれぞれの人が自分にあった道を歩けるように、ありとあらゆる道を準備してくれた人とも言えるでしょう。
仏陀が教えた道、キリストが教えた道、老子が教えたタオ、ヨガの道、タントラの道、愛の道、瞑想の道、祈りの道・・・。
そしてそれらの教えを単なる教義や言葉として語るのではなく、仏陀の教えを語るときにはまさにそこには仏陀の慈愛と瞑想があり、キリストの教えを語るときには、キリストの愛とパッションがあり、老子の教えを語るときにはまさに老子がそこにいる、禅を語るときには、まさに彼が禅師なのです。
ですから彼がそれぞれのマスターの言葉を話すときは、まさに彼とともに、それぞれのマスターの道を歩むという感じなのです。 だからといって、そこに教義や哲学があるわけでもなく、そこで自分が得た理解でもって、それぞれが自分の道を歩むのです。
仏陀の最後の言葉として、「自灯明、法灯明」という言葉がありますが、まさに自分自身の光、理解を灯明として、自分自身の道を歩むしかないのです。
OSHOの話のなかにはいつも興味深い物語やジョークがあり、笑いがありました。 彼は深刻さは病だといいます。
私が好きな彼の言葉に「Enlightenment is ultimate entertainment」(悟りは究極のエンターテイメントだ)という言葉があります。
禅では悟りを求めて修行をするのですが、それは深刻になるべきものではなく、最高に遊びに満ちたものであるべきようです。 晩年の数年間は、彼は禅のみについて語っていたというのも、私にとってはとても興味深いことでした。
彼はこう語っています。
「私のメッセージは教義ではない。 哲学ではない。 私のメッセージはある種のアルケミー、変容の科学だ。 だからあるがままの自分で自ら進んで死に、今は自分でも想像できないほど新しい何かに生まれ変わる用意のある者たちしか、勇気のある少数の人々しか聴く用意ができていない。 というのも、聴くことはリスクを負うことになるからだ」OSHO
OSHOは1990年1月19日に肉体を去りました。
彼の言葉は、彼が語っているように、単なる知識ではなく、彼自身から直接聴くことでそのスピリットが得られるものです。
彼の語るスピリチュアリティを体験するには、直接彼の語る声を聴くことをお勧めします。 英語を読める方は彼の語った英語の本を読まれるといいでしょう。 私も彼の「道元」の講話を翻訳して出版した経験からいうと、どうしても翻訳には限界があります。 でも、もちろん日本語に翻訳された本のなかにも、彼が伝えるエッセンスは感じ取れるでしょう。
本を読むのが苦手、ヴィジュアル系なの、という人にとっては、彼の絵があなたにとってのメッセージを伝えてくれるか もしれません。
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http://oshoart.com/
「私は、自由、個性、創造性、そしてこの地球が美しくなることの味方だ。 楽園を待つのではなく、この瞬間を生きること。 地獄への恐怖もなく、楽園への欲望もなく。 ただシンプルに、静かに、ここに在りなさい。 生を謳歌しなさい」OSHO
真のスピリチュアリティを体験してみたいと思われる方は、ぜひ彼の言葉に耳を傾けてみてください。 http://www.osho.com/Main.cfm?Area=medresort&Sub1Menu=mv&Sub2Menu=mvwelcome&Language=Japanese
尚 記
     
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