人に介入をしない
自分が信じる“良いと思われること”を、人にも勧めてしまうことは誰にもあることですよね。 それは状況次第では人間として避けられない場合もあり、“良いこと”を人に知らせることが一概に悪いことでないのも確かでしょう。
でも、実際の生活的な場面では、これにはなかなか難しい面があります。 というのは、自分にとって“良いこと”が、必ずしも相手にとって“良いこと”であるとはかぎらない場合もあるからです。
さらに、このことにはもうひとつ別の側面もあります。 それは、自分が信じる“良いと思われること”の根拠を、自分が自分の体験的事実として確実に知っているわけではないという場合があることです。
自分が自分の体験的事実として確実に知っていることなら、たとえ伝えた相手に伝わらなくても、人は意外に簡単にそのことを受け入れられるのではないでしょうか。
例えば、自分がある“近道”を確実に知っていたとして、遠回りをしようとしている人にその近道を教えてあげて、相手がそれを素直に信じなくても、別にそのことで傷ついたりしないですよね。 気の毒になあ、と思うだけだと思います。(^^;)
でも、もしこれが、自分が自分の体験で確実に知っていることではなく、しかも何かの権威による情報だったりしたら、相手に信じてもらえなかったら、人は傷つくかもしれません。 人間心理というのは、なかなか不思議な動きをするものですよね。 そのときひとは、われ知らず、自分のほうが“知っている”ことを証明したがっているのかもしれませんね。
前回、「自分に責任を取る」というタイトルでご紹介したクローディア・ブースの記事 には、続きがありました。 そこでクローディア・ブースは「人に介入をしない」ということの“応用編”とも言える内容に立ち入っていました。
——————————————————————– ヴィッキーは自分と自分の「父」との間に決して誰も介在させませんでした。
彼女がよく口にしていたのは、「父」に話しかけることができるというのに、なぜ他の誰かと語る必要があるのか、ということでした。 道の途中に誰にも介入してほしくなかったのです。
ここでの問題はただ一つ、もし私たちが平和な時を持ちたかったら、どんな代価を払おうとも、それを避けるべきだということでした。 もし私たちのお気に入りの人がやってきて、こうしたことに執拗な興味を持っていることが分かったならば、私たちは全力を尽くして会話を別の方向へと向けるようにしたのです。
それによって、その人が自分の面目をつぶさずに済むように。 そしてまた、これも付け加えておくべきだと思うのですが、ヴィッキーはそれは愛に溢れ、礼儀正しかったために、その人に対しては何も言いませんでしたが、あとで彼女は私たちに、まったくあやふやな見当違いな考えだと思うと言ったものでした。
ですからこうした2つの相対する考え方を調和させるために、以下のことを考えてみましょう。
私が人に介入をしないという意味において私が心を砕いているのは、ある言葉や考えが本当に自分のものではないと思うならば、他の人がそれが誰の言葉であるか知ることが重要なことなのか、重要だとしたら、いったいどうしてかということです。
もしあなたがそういったことを口にすることで、その「メッセージ」にあるエネルギーと波動を加えるとしたら、彼らに対する責任をきちんと取ることができないのではないでしょうか。 ある本を読んでその考えを取り入れても、必ずしもその本の名を口にすることはないでしょう。
聞いている人は、介入されたり強制されたり、自分が劣っていると感じたり、服従の立場に追いやられていると感じることがより少なくなるのではないでしょうか。
もう一つ考慮してほしい点は、「より高い存在」を引き合いに出そうと出すまいと、自分の真我を落としめないということです。 実際、こうした考えや洞察を本当に身につけることは、とてもすばらしいことではないでしょうか。 たぶんオーラソーマを通して、あなたは真我をもっとよく知るようになるでしょう。
私たちそのものである「真我」、「星」は、私たちが願ってもいない内なる教授(=直感)を私たちに与えてくれるのです。 私たちの内にある「星」(へそから指二本分上がったところ、そして指二本分内に入ったところ)は、私たちのハイアーセルフ(より高い自己)であり、神の座であり、内なる光なのです。
過去と未来を通じて存在し続けるその源を利用する代わりに、メッセージを運んでいるといった「大げさな主張」をすることで、私たちは自分が光の存在であることを否定することさえありうるのです。
たぶんオーラソーマのバランスボトルが与えうる最大のギフトは、内なる光の存在を教えてくれるということにあるのでしょう。
たぶんヴィッキーが与えてくれた最大のギフトは、ボトルたちが私たちひとりひとりが神であることを示す可能性を与えてくれたということなのでしょう。
私たちはそうした場所から、内なる光の存在に気づきながら、もっと愛に満ちて生きることを学んでいるのです。
クローディア・ブース (イギリス版 リヴィングエナジー編集者)
『リビング・エナジー』Vol.1(p23) ——————————————————————–
なるほどねぇ。
> もし私たちのお気に入りの人がやってきて、こうしたことに執拗な興味を持っていることが分かったならば、私たちは全力を尽くして会話を別の方向へと向けるようにしたのです。 > それによって、その人が自分の面目をつぶさずに済むように。
そういう方針で、人と接していたんですねぇ。(^^;)
いやー、勉強になりますね。
pari 記
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