糖尿病のエネルギー分析(1) 愛に関する問題
「微細解剖学への旅(2)」より メアリー
私たちは肉体の症状として発症する病気を、それは身体の問題だ、というふうに考えるのに慣れていますよね。
とくに病気の症状の改善・解消を目的とするお医者さんの立場では、病気を身体の問題として、患者さんの人格などとは切り離して扱わざるをえないでしょうし。(^^;)
そしてもちろん、遺伝的疾患や事故が原因で起こる疾患だけでなく、身体だけの問題として処置しなければならない病気がたくさんあることも間違いありません。
でも、以前は「成人病」と呼ばれていた糖尿病や高血圧が1996年から「生活習慣病」という名称に変更になったように、これらが当人による生活習慣の自覚的修正によって回避できる病であることが社会的に認知されてきました。
そもそも「成人病」という名称を変更せざるを得なくなったのは、小学生や中学生の年齢で糖尿病や高血圧の症状を呈する子どもたちが現れたからですものね。
あまり運動せずに過栄養になるような食生活を続けていると子どもでもなってしまうのですから、「成人病」と言えないのは明らかです。
これは当人の「生活習慣」に発病の原因がある、もっと自分の身体の管理に責任を持ちなさいというわけです。(^^;)
自分の身体の状態には、どうやら自分の普段の生活行動が深く関係しているらしい、ということが分かってきたわけです。
さて、今回ご紹介するのは、さらにもう一歩突っ込んだお話です。
つまり、自分の身体の状態には、どうやら自分のふだんの心の持ち方、精神的あり方が、深く関係しているらしい、というのです。(@_@)
これでは、うっかり病気にもなれませんね。(*^_^*)
ではメアリーさんの「微細解剖学への旅(2)」の「糖尿病のエネルギー分析(1) 愛に関する問題」という記事からご紹介します。
——————————————————————
糖尿病のエネルギー分析(1)
愛に関する問題
糖尿病患者の一般的な問題は、「糖」を「愛」の代用品にしてしまうことからはじまります。
甘いものは、生活あるいは人生が私達にとって「甘い」ということを保証するための代用品なのです。
糖尿病患者の糖をむさぼりたい願望と、糖を消化し細胞に吸収することが出来ない背後には、愛を受け入れそして吸収していくことについての不能とともに、愛に対する満たされない願望が象徴されています。
糖尿病患者は、典型的に、「代用食物」で暮らすことを余儀なくされているのです――代用物とは、すなわち、本当に欲しているもの、すなわち「愛」のためのものです。
糖尿病は全身の過度の酸化により、結果として昏睡を招きえます。
我々は攻撃のシンボルとしての酸という存在を獲得しています。
愛と攻撃の間、糖と酸の間(そして神話的には金星と火星の間)に両極を見つけます。
身体は愛がないとsour(酸性・不機嫌・意地悪)になることを警告します。
そして、放置することで、いっそう、ぶっきらぼうで無遠慮になり、自分自身にさえ絶えがたく許容がなくなっていくのです。
愛を受容することができる唯一の人々は同じく愛を与えることができるでしょう――しかし糖尿病である人々は、愛を吸収されない糖として尿中に手放していまいます。
糖尿病患者は(甘いもののかたちで)愛を欲し、自分自身を信頼できずに、行動的に愛を追いかけるのです。
「私はほんとうにまだ何も持っていない!」
そしてまた、彼らはなおさら愛を切望するのです。
「私はほんとうにそうするべきだけど、してはいけないのだ!」
しかし、自分自身を愛することをまだ学んでいないために、獲得できません。
そしてまた愛が彼らを通り過ぎていくのです・・・。
(’The Healing Power of Illness’by Thorwald Dethlefsenより)
『リビング・エナジー』 Vol.5(p61)
——————————————————————
【糖尿病患者の一般的な問題は、「糖」を「愛」の代用品にしてしまうことからはじまります】
【糖尿病患者の糖をむさぼりたい願望と、糖を消化し細胞に吸収することが出来ない背後には、愛を受け入れそして吸収していくことについての不能とともに、愛に対する満たされない願望が象徴されています】
なんと……。(-_-;)
これはもう、何も言えませんね。
逃げ道なし。(*^_^*)
pari 記