アミ 小さな宇宙人
このブログにアクセスしてくださるような方の多くは、きっと、この本は読まれてことがあるだろうと思います。 でも、精神世界本のある種の代表として、間違いなく固有の地位を占め、固有の一隅に燈明をともしているこの本をご紹介しないというのも……と思いました。(*^_^*) とっても読みやすい本、あるいはマインドが豊富な人には、少し“ひねり”がなさすぎるかもしれない本……。
<注意(大人のみに向けた) 読み続けないように! きっとおもしろくないでしょう。 ここに書いてあるのは。すばらしいことばかりだから。>
最初にあるこの「注意」が、ある意味でこの本のすべてを表しているようです。 良くも悪くも、子供のような無邪気な心に向けて書かれた本らしいです。 この『アミ 小さな宇宙人』の著者のエンリケ・バリオス氏は、この本をファンタジーとして書いています。 バリオス氏は、アミがそう忠告してくれたからだと言っています。 そのあたりの事情は、「カテゴリー9」の惑星に“アブダクション”されたミシェル デマルケ氏の 『超巨大[宇宙文明]の真相』()場合とは違うようです。 デマルケ氏は、この著書をあくまでもノンフィクションとして書いていますから。 1986年小さな印刷所から出版されたこの『アミ 小さな宇宙人』は次々と版を重ね、チリでは常にベストセラーの座を占め、何カ国語にも翻訳され、ローマ法王ヨハネ・パウロⅡ世は一読して著者に賞賛の言葉を贈ったとか。 ところで、日本で出版されたこの訳書は、日本の子供たちに読まれるるでしょうかねぇ。(-_-;) 日本の子供たちは、ここに書かれてあるような「すばらしいこと」に興味を持つことができるのでしょうか……。 去年「朝日新聞」に、対象書籍を選定して読者から読書感想文を募り、一冊についてひと月ほど選者がそれらの感想文を展開する企画がありました。 そしてその対象書籍の何番目かに、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』が選ばれたのです。 そのとき、この本を「難しくてよくわからなかった」と評する読者の方が多かった、と選者が書いているのを見て驚いたことがあります。 自分にとっては、小学生のころからいちばん好きで、大切な本だったので。 そうですね……考えてみると、あまりにも単純な話は、場合によっては難しいという反応になることも、ありうるわけですよね。
ちょっと立ち読みしてみましょうか。 ——————————————————————– 「人によっては、思考の方が愛よりも、上に位置していると考えている。 その“クルミ”をあげるのにどうするの?」 「どうやって驚かせてやるか考えるね」 「そのために君は頭を使うんだろう。違うかい?」 「もちろん、そのためのプランを練るよ」 「だったら、君の頭は、君の愛のために役立たせるの? それとも、その反対?」 「よく分かんないな」 「君のおばあちゃんが、幸せになるようにと願うもとは君の愛? それとも思考なの?」 「ぼくの愛だよ! そこからすべてが生まれている」 「“そこからすべてが生まれている”。まったくそのとおりだよ。 だから最初に愛して、その次ぎに君のおばあちゃんが幸せになるように君の頭を使うわけだね。ペドゥリート」 「そのとおりだよ。ぼくの頭をぼくの愛のために使うんだ。まず、最初に愛があるんだ」 「じゃ、愛の上には何があるの?」 「何もない?」 「何もない」 アミは輝いた眼差しをぼくに向けていった。 「もし、神がたくさんの愛を持っていることが立証できたら、神っていったい何だろう?」 「知らない」 「もし、愛よりも何か優れたものがあったとしたら、それは神のはずだろう?」 「うん、そう思う」 「愛よりも、偉大なものってなーに?」 「分からない……」 「愛の上に何があるって話したっけ?」 「何もないって」 「じゃ、神って何なのか?」 「あっ! “神は愛だ!” 君は何度も言っていたし、聖書にもそう書いてある。でもぼくは、神ってたくさんの愛を持った人間のようなものを想像していたよ……」 「愛をたくさん持った人間なんかじゃない。神は愛そのものなんだ。愛が神なんだよ」(p207-209)
『アミ 小さな宇宙人』 ——————————————————————–
ふーむ。(-_-)
前回取りあげた『神とひとつになること』の引用部分とは、またずいぶん違う内容ですね。(^^;)
でも、こういう言葉も、やはり、必ずしも誰もが好きな言葉ではないのでしょうね。
人間は、とてつもなく複雑な存在で、ありとあらゆるヴァリエーションを展開するための器なのでしょうから。
pari 記
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