『心眼を得る』 ダグラス・E・ハーディング

心眼を得る (シリーズ・サイコ)/ダグラス・E. ハーディング ¥2,100 Amazon.co.jp
前々回のこの欄で、バーナデット・ロバーツの『自己喪失の体験』という本をご紹介しました。 それは、文化伝統のなかに“悟り”という現象に対するいわば免疫がなかった(当時)キリスト教圏内で起こった、覚醒体験の報告とも言える本でした。 あまり類書のない本として紹介したのでしたが、今回ご紹介しようと思うのもじつはキリスト教圏内で起こった覚醒体験であり、その後の著者の奮闘の記録です。 このダグラス・E・ハーディングという方は、33歳のときヒマラヤを歩いていて、いわゆる禅語でいう“見性(けんしょう)”をします。 自分が何者かを“見る”(知る)わけです。真我を垣間見るんですね。 ま、悟ったわけですが、ただ、西洋の方なので、自分が“見た”ものを確証してくれるような人がまわりにいないんですね。 ダグラス・E・ハーディングと言えば、今ではウェスタンのスピリチュアル世界ではとても著名な方らしいですが、当人がこの体験をしたときは、まだ大学生で、むろん、まったく無名の存在です。 当たり前ですね。(^^;) 言いたかったのは、当人が自分の体験を相談できるような相手が彼のまわりにはまったくいなかった、ということです。 そのため、彼は自分が足を踏み入れた世界と、そのなかでの自己探求の道を、まったく自分ひとりで、独自の探求で切り開いていかなければならなかったわけです。 後に、彼はそれを「無頭道」と名づけたそうです。(英語でどういうのかは知りませんが。(*^_^*)) いまでは、彼に“斬首”されて頭を失った方が、世界中に万人のオーダーでいるみたいです。 もっとも、頭を切り落とされた方が、そのことに気づいているかどうかはまた別ですが。(^_-)
ハーディング氏が西洋文明のなかで独自に切り開いた「無頭道」の観点では、誕生後の人間は「八つの階梯」のどこかに位置することになります。
すなわち、 (1)頭のない幼児 (2)子供 (3)頭のある大人 (4)頭のない見る人 (5)頭をなくす修行 (6)前進 (7)関門 (8)突破 の八つです。
この「八つの階梯」の叙述もじつに秀逸で、ハーディング氏がひとりで歩んだ探求の道がどのようなものだったのかが推測される感じです。
ちょっと立ち読みしてみましょうか。最初の体験の場面にしましょう。
——————————————————————–  わが人生の最良の日……いわゆる生まれ変わった日……は自分の頭がなくなっていることに気づいた日である。 といっても、何とかして人の気をひこうと文学的修辞や警句をもてあそんでいるわけではない。 至極真面目な話……私は頭がなくなったのである。   私がそうした発見をしたのは三十三のときである。 確かにそれは突如として訪れたのではあるが、実は私にはある差し迫った問題意識があり、それに応じて起きたことなのである。
当時、数か月来私の頭には「自分は何者なのか」という疑問が渦巻いていた。 私はその時たまたまヒマラヤを歩いており……あの地ではとかく普段とは違う精神状態に陥りやすいといわれるが……恐らくそのことはほとんど関係していないと思う。
もっともあの日はよく晴れた穏やかな日で、私が佇んでいた山上から青く霞んだ谷間の向こうに見はるかす世界一の山並みの眺めは、重大な直感を得るにふさわしい舞台装置ではあった。   実際に起きたことはばかばかしいほど単純で、どうということのないことだった……私はただちょっとの間考えるのをやめただけだった。 理性や想像力、そしてあらゆる心のざわめきが消えうせていた。 このときばかりは完全に言葉を失っていた。 私は自分の名前や自分が人間であること、実在するものであること、私あるいはわたしのものと呼ぶべきものを一切忘れていた。
過去も未来も抜け落ちていた。まるで自分がその瞬間に生まれ、真新しく、無心で、記憶というものがまったくないような気がした。あるのはただ「今(その瞬間)」と今確かに与えられている物だけだった。 見るだけで十分だった。 そして私の目に映ったものは褐色の靴のところで終わったカーキ色のズボンの脚、肌色の手のところで終わった両側のカーキ色のシャツの袖、そして上の方の……なんとまったく何もないところ……で終わったカーキ色のシャツの胸の部分であった。 確かに頭で終わってはいなかった。   この何もないところ、頭があるはずの場所の穴が、普通の空(くう)であること、単に何もないのとは違うことに気づくのにさして時間はかからなかった。 何もないどころか、そこはしっかりと占められていた。 それはぎっしりと詰まった巨大な空、一切を宿す余白のある無……草や木、陰影に富んだかなたの丘、そしてその遙か上空の青空に一並びのぎざぎざした雲のように浮かんだ雪をいただいた峰々を宿す余白のある無だった。 私は頭をなくし世界を手に入れたのである。
  
       『心眼を得る』 ——————————————————————–
……。(-_-)
何に驚くと言って……「当時、数か月来私の頭には『自分は何者なのか』という疑問が渦巻いていた」という叙述ですよね。
数ヶ月も、そういう“大疑団”に取りつかれること自体、もう、普通のことじゃないと思います。
そこまで煮詰まったら、何かこういうことが起こるように、まあ、宇宙はそういうふうになっているんでしょうね。
pari 記
     
Twitterボタン Twitterブログパーツ