自分は誰なのか?  ラハシャ博士

自分は誰なのか?
「カウンセリング 『内なる宝への扉への鍵』」からの抜粋
        「カウンセリング」という技術の“意味”というか“社会的役割”を一言で表すとすれば、どういうことになるんでしょう?
ちょっと、フリー百科「ウィキペディア」で調べてみましょうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/カウンセリング ——————————————————————– カウンセリング(英: counseling)とは、依頼者の抱える問題・悩み等に対し、専門的な知識や技術を用いて行われる相談援助のことである。 ——————————————————————–
とあります。
これはわかりやすい……さすがです。
ただ、「カウンセリング」という言葉には、“広義”と“狭義”の用法があるみたいですね。
「ウィキペディア」では、続いてこう書かれています。
——————————————————————– 広義のカウンセリングは、社会・経済・生活の各分野における種々の専門的相談援助行為を指し、例えば、美容関連、就業関連、法律関連、ローンクレジット関連、婚姻関連ほか、様々なものが含まれる。
一方、狭義のカウンセリングは、精神心理的な相談援助、いわゆる心理カウンセリングを指す。 その場合、心理カウンセラーの専門的学問基盤は、心理学・応用心理学の一分野である臨床心理学が用いられることが多い。 ——————————————————————–
なるほど。
これで言うと、ラハシャ博士のオーラソーマのカウンセリングは狭義の方のカウンセリング寄りでしょうか。
ラハシャ博士によると「人生における大部分の苦しみは、私たちが自分の源泉から切り離され、分離し、切断されていると感じるために」起こるのだそうです。
ラハシャ博士のカウンセリングは、“人の無用な苦しみをなくすこと”に関わる援助技術なのかもしれませんね。
では、博士の「カウンセリング 『内なる宝への扉への鍵』」から「自分は誰なのか?」というテーマに関連した部分をご紹介します。
        ——————————————————————–
自分は誰なのか?
カウンセラーは「私が両親や社会から借用した人格の背後にいる、自分とは誰なのか?」という疑問の中にいるクライアントをサポートします。
クライアントが人格的側面の背後にあるものを発見したら、その人は本質(エッセンス)と呼べるものと接触したということです。 その本質(オーラソーマではそれを「魂のボトル」にも結びつけます)から、クライアントは自分の個性の非常に特有な要素と特色を発見することができます。
彼または彼女はすでにある花、あるいは今回の生涯で自分がなるべき花を発見することができます。 クライアントはこれを理解し、他の誰かになろうとするのを止めることができます。 バラが蓮の花になろうとはせず、バラであることを楽しんでいるのとまさに同じく、クライアントはあるがままの自分の覆いを取り、その自分を喜ぶことができるのです。
本質はいかなる意味でも人格や人格の変化によって影響されることはないので、カウンセリングはクライアントがこの心身における生の流れが表現しているものを受け入れ、抱擁し、楽しめるように助けることができます。
人生における大部分の苦しみは、私たちが自分の源泉から切り離され、分離し、切断されていると感じるために起こります。 苦しみが起こるのは、私たちが押されたり引っ張られたり、外側にある何かの圧力の下にいて、そこで自分が外的境遇の(主人ではなく)奴隷や犠牲者になっていると感じるからです。
この犠牲と苦しみは誤解です。 それは自分の外側にある対象と同一化しようと外側に向かって動くエネルギーのせいなのです。
カウンセリングは、クライアントがエネルギーの向きをグルリと変えて、すでにある自分を発見するように助けます。 不思議な現象とは、その瞬間何が体験されていたとしても、それが悲しみであれ、怒りであれ、失望であれ、無力感であれ、あるいは喜び、幸福、愛であれ、すべて自分が個であることの発見への扉になることです。 どんな感情や状態でもそれが拒否されることなく、それを別のものにしようとすることなく、それを変更しようとするいかなる期待もなく全面的に体験されたなら、その経験そのものが喜びとなります。 この瞬間にあるものを全面的に体験しようとする意志そのものの中で、ネガティブな、あるいは苦しい出来事が喜びに変容するのです。

        『リビング・エナジー』Vol.4(p13-14) ——————————————————————–
なるほど……。
われわれ人間の苦しみは、「自分の外側にある対象と同一化しようと外側に向かって動くエネルギー」のせいで起こるものなんですねぇ。
しかも「この犠牲と苦しみは誤解」である、と。
そうか……「全面的に体験しようとする意志そのものの中」で「苦しい出来事が喜びに変容する」んですか……。
pari 記
     
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