クイントエッセンス その4

前回の続きです。
目に見えるマスター、つまりは人間としてのマスターとは、どういう存在なのでしょうか。 
もともと日本では禅師、つまり禅マスターという人々が存在し、それが日本の精神のバックボーンのひとつを担っていました。
禅はインドで生まれ、中国を経て、日本で花開いたとされています。
日本が世界に誇れるもの、そして世界に貢献できるものがあるとすれば、ひとつは、この禅の文化であり、禅師、禅マスターの存在であろうと思われます。
数十年前までは傑出した禅師も日本に存在していました。 禅の真理の探求では、そういう自分にとってのマスターを探すところからはじまります。
西洋人にとっては、マスターという存在はなかなか認めがたい存在のようです。 個人主義に反するものであり、西洋文化ではそのような存在は受け入れがたいようです。
・・・というのは西洋では大抵そのようなマスターは殺されています。
キリストは磔にされましたし、マンスールは手足を切り落とされました。 ソクラテスは毒殺されました。
日本では、誰ひとりとして禅マスターは殺されることなく、それどころか尊敬されています。
北条時宗のような将軍の指南役でもあり、現代では経営者のトップや政治家などの精神的アドバイザーでもあったり、一般の人の悩みに光をもたらしてくれる存在でもあったわけです。
日本には、かつてはそのようなマスターは存在し、その存在を受け入れる伝統があったのですが、現在の日本ではどうでしょうか?
オウム真理教の事件などがあり、洗脳やマインドコントロールということにされてしまったりします。
・・・マスターについて語ろうとしながら、実はそれはとても難しいことだと気づいて、ちょっと書くことを戸惑っています。
それは言葉を越えた経験であり、かつ、それについて語ることは自分の投影でしかない、ということもわかるからです。
(すべてを映し出すクリヤーの質)
マスターに対しては、ただ感謝と愛を感じるだけです。 そして、また自分が誰かに本当に愛され、無条件に愛されていると感じるのはマスターからなのです。
(クイントエッセンスには、すべてローズクォーツのピンクのエネルギーが含まれている、ということの意味が分かります)
そして、その透徹した明晰さ。
(マスターボトルには、すべてクリヤーの色が含まれている、ということの意味も分かります)
深い洞察、そしてユーモア、遊び心。
私の知っているマスターは、悟り(エンライトメント)は究極のエンターテイメントだ、といいながら、最高に楽しませてくれました。 それは、すべての矛盾をそのなかに含んでいる存在でもあります。
(すべての色が含まれているという意味でのクリヤーの質)
そして、決して依存することは許さず、自分自身に投げ返されてしまいます。
仏陀は自灯明、自らを灯明とせよ、という言葉を辞世の句にしましたが、そのとおりなのです。 そこで伝えられるものは、言葉ではなくその存在、臨在の伝達。
こういう話があります。
インドにはヴィーナという琴に似た楽器があります。

それは誰が奏でなくとも、そこに集まる人々のバイブレーションによって自然に音が奏でられるという言い伝えがあるそうです。
マスターは、そこに集まる弟子たちにとって必要なことを自然と語り、それはシンクロニシティで伝えられるものです。
マスターは、まず、その人自身が究極の意識、悟りを得ている人であることが必要です。
それだけでなく、人をも助けることのできる技量を持っていることも必要とされます。 そして同時に人を助けるという意思を持っていること、菩薩の精神の持ち主であることも必要です。
マスターは覚醒し、目覚めている人であり、何も見えず路頭に迷う魂に、行く道を照らし、導いてくれる存在でもあります。
もし、目の見えない人が、同じく目の見えない人を導けば、みんなが穴に落ちてしまいます。そこでは道を照らす存在としてもマスターがいるわけです。
人生でそういう人に出会うことがあったとすれば、それが人生の最高の喜びである、ということもわかるでしょう。
人間の意識としての存在がそこにあるわけです。 そして、そのマスターの存在は肉体に限定されることもないのです。
クイントエッセンスは、そのようなマスターの質の一端を、色の光線を通して伝えようとするものなのです。
尚 記
     
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