メキシコの波

メキシコの波

  「粒子と波動、魂と光線、色と光」より  ドミニク・ヨーマン

       

あなたは、“時間は幻想だ”という話を聞いたことがありますか?

そして、人は悟ったら、時間が幻想であることを実際に知ってしまうというのです。

あなたが経験するすべての場面、すべての状況は、じつはすべて今この瞬間のなかにあるというのです。

ただ私たち人間の知覚能力、理解能力では、すべての体験を今のこの瞬間に同時に体験することは不可能なので、それを一つひとつ味わって体験できるように、時間という幻想が取り入れられているのだと。

たとえば、一本の映画のすべての画面は、一本のフィルムのなかに全画面が、今この瞬間に同時に存在しているようなものだというわけです。

なんだかわかったような、わからないような話ですが、いちどこんな話を聞かされると、なんとなく記憶に残ってしまいますよね。(*^_^*)

実際、これはスピリチュアルな世界ではごく普通に耳にする話かもしれません。

で、なんとなく時間は幻想なんだな、などと情報では知っていたりするのですが、もし、本当に時間が幻想だということを受け入れたら、私たちがしている普通の人生というものは体験できなくなるでしょうね。

だって、自分はその瞬間その瞬間に一つひとつの状況に直面して、いろいろ迷ったり、決断したりしているつもりなのに、実際は、その場面は今のこの瞬間にすべて決まった形で存在しているなんて知らされたって、困ってしまいますよね。(^^;)

なんか真面目に人生をやっていられなくなるじゃないですか。(^_-)

どうしてこんな話を思い出したのかわかりませんが、ドミニク・ヨーマン氏のこの文章をご紹介しようとしたら、そんな連想が起こってしまいました。

なにかが関係があるのかもしれませんね。

つまり、私たちは独立した主体であると自分では想像していても、実際は全体のなかでの、ある人物を演じさせられている劇の登場人物にすぎない、というようなイメージがつながったのかもしれませんね。

では、ドミニク・ヨーマン氏の記事「粒子と波動、魂と光線、色と光」から、あのサッカー場でサポーターたちによって演出される「メキシコの波」に触れられている部分をご紹介しましょう。

       

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粒子と波動、魂と光線、色と光

ここでは、「色と光との関連から見たとき、私たちは誰なのか」という問いに触発された一連の考えが述べられています。
こうした観念はまた、粒子であったり、波であったりする、光の本質とはなんなのか、という科学的な問いによって現れてきた思考をも含んでいます。




 

それはある問いから始まりました。
「光の本質の持つ逆説(粒子か波かという)と、人間の存在の間に、何か似通ったものがあるだろうか」。
個人的には私たちは粒子のようなもので、自分なりの軌道に従って生きています。

 

 

 

けれどもサッカーの試合に行って、集団となって動く人々を遠くから見ていると、より波に近いように見えます――あなたがもしサッカーのファンのすることをご存知なら、とくに有名なメキシコの波というものもありますね。
ですから、遠くから見たとき、個人の粒子の集団というのは、波のように見えます。
このような場合には、動きの底に、何かまとめ上げる原理のような力が横たわっているようです。
その波は、その集団の人々を通して現れる観念やエネルギーなのでしょう。
観念やエネルギーそのものは、また別のレベルに現れてくるものであり、易が映しだし、啓示しようとしているのは、このレベルなのだと思います。

また、こうした文脈において、人々(粒子)がある刺激にどう応えるか、その刺激に対し、ある波の一部になるかどうか、ということを予測することはできないというのも、注目に値することだと思います。
個人の行動を予測するのが難しいというのは、量子物理学のある側面を反映しています。
私の理解している限りでは、量子物理学は、確率として示されるのです。
量子の現実というのは、粒子の構成要素は、亜原子のレベルでは、常に存在したりしなくなったりしている、ということであり、ある粒子が現れるかどうかという予測は、確率として示されるのです。
この二つの状況の違いというのは、社会においては、粒子(個人)が波以前に存在するということです。
量子物理学では、波は粒子に先だって存在しています。

例えば、亜原子レベルにおいては、原子や世界の成分である粒子は、存在したりしなくなったりしているにもかかわらず、原子あるいはより大きな規模において、世界は存在しているし、また存在し続けるだろうということです。

                
『リビング・エナジー』Vol.4(p68)
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そう言えば、東京渋谷駅前のスクランブル交差点は、近くのビルの窓から見下ろしている外国の方にとっては、とても神秘的な動きのパターンを眺められる特別な“見もの”なんだそうですね。

あれだけたくさんの人間が、同時に四方八方から流れ込んでくるのに、そこでひとつの衝突も起こらずにスムーズに流れてゆく・・・。

他の国では考えられないことなんだそうです。

pari 記
 

 



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