ラムサ ホワイトブック
感動しやすい人間だったので、これまでその時その時でずいぶんいろんな本に感動してきたような気がします。 読んでいて鳥肌が立ってくるとか、ときには身体が震えだしたり、極端な場合は興奮して口がガチガチ、歯の根が合わなくなるようなバカな体験もしました。(*-_-*)
まあ……そういう極端に世間の常識と異なる情報が好きだったわけでしょうし、そういう情報では極端な心情的シンクロが起こったのでしょう。 その結果、ある時期からはそういう本ばかりを読むようになっていたようです。 そういう読書癖のある人間でしたが、この本はそういうわたしを特に感動させてくれた本の一冊でした。
ある意味では、まさに待ちに待った本だったとも言えるかもしれません。
じつはこの本には『ラムサ―真・聖なる預言』という別の翻訳書があって、その本で数年前にすでに出会っていたのでした。 それも大好きな本だったのですが、でも何冊もあるお気に入りの一冊という感じではありました。 その証拠に、人に教えられてはじめてこの『ラムサ ホワイトブック』を読んだときは、それが以前読んだ『ラムサ―真・聖なる預言』の異なる翻訳書だとは認識していませんでした。 もちろん、同一の発信源による似たような挿話、似たような展開の本だと知ってはいましたが、それがまったく同一テキストの翻訳本だとは思っていなかったわけです。 それほど、本自体から伝わってくる情報の波動が違って感じられたのでしょう。 あるいは単にこちらの理解力の準備ができていなかっただけかもしれませんが。 この本では、身の震えるような感動を覚えたものです。
「体を持ってここに生まれてくることは、罠としてつくられたわけではない。それは永遠に続くものとしてあるのでもない。それは創造性と生命の探求の中にある、参加するための単なるゲーム、新しい冒険にすぎなかったのだ。だが、あなたはすぐに化身の持つ五感の中で自分を見失ってしまい、自分の体が完全に自分のアイデンティティとなってしまったのだ。 あまりにもこの天界の物質の中に浸りきってしまったために、あなたは不安な人間、怖がる人間、傷つきやすい人間、死にゆく要素である人間というものになってしまった。それは、あなたが自分の内面のパワフルな本質を忘れてしまったからなのだ」
まさにそういうことなのだろう……と思いました。 それしかありえない……と。
同様のことを、和尚はこんなふうに言っています。
「これはあなたの生だ。ほかには誰もいない。あなたが笑えば、あなたは笑う。あなたが泣けば、あなたは泣く。ほかの誰にも責任はない。ただし、あなたはあまりにも長いあいだ泣いてきたものだから、それがあなたの癖になって、笑い方を忘れてしまったということはありうることだ。また、あなたがあまりにもひどく泣くものだから、ほかになにもできなくなった、ということもありうる。 することは、たくさんあっただろうに。あまりにも何回もの生涯にわたってあなたが泣いてきたために、泣くことを選んだのが自分自身であることを忘れてしまった、ということもありうる。だが記憶がないからといって、真実が虚偽になるわけではない。あなたがそれを選んだのだ、あなたが主人だ。あなたが決心して決めた瞬間、この泣くことは止まる」(The Great Path, #6)
ラムサは言います。
「あなたには知るべきものをすべて知る能力がある。あなたの脳はそのためにつくられたのだ。それは、肉体に入って物質界で生きるひとりの神が、自分が望むどんな神の次元であろうと、それを三次元的な形で見ながら体験し、理解することができるようにするためであった……」
それならわかります。 もともとは、そういう単純な話であったはずです。 もちろん、その後、それをこの物理次元に実現するための多くの構造、多くの階層、次元が、そしてそれゆえのたくさんの複雑性がつきまとったことでしょう。 またその結果としての永い永い歴史がそれに続いたことだろう。 とんでもない八幡の藪知らずに入り込んでしまったのでしょう。 しかし、それもこれもとんでもない永い夢、とんでもない永いゲームにすぎなかった。 もうこれ以上、複雑さを追加する必要はないのでしょう。 もう、そういうタイミングではないはずです。 もう、帰り支度を始めるべき時なのでしょう。
誰に押し込まれたのか、布団の中の目覚まし時計は、われわれの夢を破ろうと籠もった音でとおの昔から鳴り始めていたわけでしょう。 ラムサのこの本を読めば、布団の中から取り出したその目覚まし時計が、突然の急を告げるかの如くに、けたたましく鳴り始めるのかもしれません。
ちょっと、立ち読みしましょう。 ——————————————————————– あなた方の誰もが、物質という制限された形態の中で神を学ぶことでは、できる限りのところまで成長してきた。
この天界でのたくさんの人生を通して、自分の驚くべき創造性が生んだこの楽園のあらゆる要素を体験してきた。 そしてその体験を通して、社会意識という、家畜の群のような現実に生きる「神なる人間」がもつ制限された思考について、知るべきことはすべて学んだのだ。
あなたはすでに、恐れや不安、悲しみや怒りやどん欲については学んだ。 嫉妬や憎悪や戦争についてもすでに学んだ。 死についてもすでに学んでいる。 自分の神聖なる源から自分を分離することについても、すでに十分に学んでいる。
その神聖なる源は、神がその「在ること(イズネス)」を劇的な形で見せている場所の中でも最終レベルのこの場所で、あなたが神を体験できるように、すべての冒険にわたってあなたを愛し、支えてきてくれたのだ。
限りない状態に戻り、喜びと、ただ在ることの自由を体験するためには、あなたは再び自分をひとつにまとめているものにならなければならない。
あなたは体という重荷を背負っているので、それになるただひとつの道は、第七シールである脳下垂体を最大限にまで活性化し、あなたの脳が、社会意識をわずかに超えたところにある限りない思考を受け取れるようにすることだ。
それが、あなたの「知っている状態(ノーイングネス)」を神というものの無限の理解へと広げるやり方なのだ。 そしてその神とは、思考の総体であるそれ自身のすべてを許し、愛する存在であり、それ自身のすべてになっているのである。
では、この小さなすばらしい分泌腺に、そのホルモンの流れによって脳の眠っている部分を目覚めさせるためには、どうすればいいのだろうか?
それは、ただ単に望むことによってだ。 キリストになるということは、「父」を知ることを望み、神のようになることを望むことなのだ。 それは、すべての思考が自己の現実となるのを可能にしたいという望みなのだ。 それはあらゆる瞬間に、自分がなってきたものすべてを愛したいという望みである。 それは、自分であるものすべての「在ること」になりたいという望みなのだ。 (P371-372) 『ラムサ ホワイトブック』 ——————————————————————–
ふーむ。(-_-)
いまは特別の時、待ちに待った宇宙の大祭なのかもしれません。
近辺宇宙のさまざまな霊統からのさまざまな代表者たちが勢ぞろいして、類縁の霊たちに呼びかけているのかもしれませんね。
pari 記
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