「自分」という感覚がなくても、自分はちゃんとここにいる(Kamalaさん)

経験したことがある方はご存知でしょうが、「自分」という想念との格闘はなかなか苦しいものです。

この世に生を享けて以来、受けてきた躾けや教育(つまりこの世の条件づけ)のすべてによって、私たちはこの身体と、それに関連づけられた記憶で構成される人格こそが自分だと教えられてきているからです。

これが自分だと言われて、その自分に対してできることが何かあるでしょうか?

身体も人格も状況に応じて絶えず変化しつづけなければなりませんし、最後にはその身体は崩壊しなければなりません。

それが自分であり、しかもそれはまわりの環境からは切り離されて、分離して存在しているのだと教えられているのです。

これで不安に苛まれなければ、そのほうが不思議かもしれません。

こうして霊的探求というものが始まります。

不安に苛まれるこの“自分”とはなんなのかの探求がはじまるわけです。

そしてその不安に苛まれる“自分”とは、気づきの主体ではなく、気づきに対して浮上してくる想念、つまり気づきの対象物にすぎないことが理解されたとき、はじめてその不安の崩壊過程が始まるというわけです。

今回ご紹介するKamalaさんも、「真っ暗闇」のなかで「自分だけが世界から切り離されているよう」状態から探求が始まったそうです。

ではKamalaさんの記事「ハートからのカウンセリング ティーチャー・トレーニングを体験して」から、そのあたりの機微に触れた部分をご紹介しましょう。


オーラソーマに出会ってから、少しずつ自分の内面を感じることができるようになっていきましたが、その前の状態はというと、わけもわからず苦しく、真っ暗闇にいるようで、自分だけが世界から切り離されているように感じていました。



コースで、恐怖や防衛を基盤としてマインドが発達すると、本来の自分から切り離されているために、自分以外のすべてのものとも切り離されたように感じるということを学び、自分が感じていた分離感はこれだったのだと思いました。

その後しばらくの間、「これが自分」「自分ってこういう人」だと思っていたものが崩れていく感覚を味わいました
自分が誰だかわからなくなるような心許なさや、「私は長い間、自分のことを勘違いしたまま生きてきたのかな…」と、ひやりとするような感じも伴いましたが、長年背負ってきたものを徐々に手放して、やり直しをしているような、不思議な感覚でした
そして、人が持つチャレンジの側面は、ハートの質である愛と気づきがもたらされることで、ギフトとして姿を現すという「変容の錬金術」について学べたことも、大きな恩恵です。

その体験のひとつですが、、先日行われたコースでのワークをきっかけに、自分が持っている無価値感について考える機会がありました。

それは「自分なんかいなくてもいい」という感じです。

その無価値感や虚無感を内側で感じていたときに、本当に自分が消えてしまうような感覚があって、それは少し悲しかったのですが、でもその感覚は徐々に、自分が光のなかの不特定の場所にいる、というような感じになっていきました。

そして、「自分」という感覚がないと、どこでもない場所から応答できるのかもしれないし、「自分」という感覚がなくても、自分はちゃんとここにい、とも思いました。


そのとき、ラハシャがコース中に「自分なんてものはない」と言っていたとを思いだしました。
それは「自分」という感覚は、マインドが作りだす幻想ということで、無価値感とは違うのですが、そのときには、その二つがなにか似ているように感じたのです。
深みではその二つは、表面上で見るほどには違わないのかもしれない。
内側に下りていくことで、カードを引っ繰り返すように、ギフトへと変容されるのかもしれない・・・。
そのように感じられました。
欠落感を無理に他のもので埋めようとしなくても、チャレンジはそれ自体でギフトでもあるということを感じた点で、貴重な体験でした。

「ハートからのカウンセリング ティーチャー・トレーニングを体験して」より
『リビング・エナジー』Vol.9(p102-103)



【「自分」という感覚がないと、どこでもない場所から応答できるのかもしれない】

【「自分」という感覚がなくても、自分はちゃんとここにいる】

「自分」という観念が指し示すものが、“「自分」という感覚”から〈気づき〉そのものへとシフトしていく様子が見事に表現されていますね。

pari 記

 

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