現在の日本でのオーラソーマの隆盛はいろいろな方々のエネルギーが関わって起こってきたことです。
そして、現象世界は変化の世界ですから、関わった方々がすべてつねにオーラソーマと全面的に関わるわけでもありません。
自分のことを考えたって、そんなことできるわけがありませんよね。(*^_^*)
それでも次々と多くの方々のエネルギーを巻き込みながら、こうして新たな前進を続けているのです。
オーラソーマはまだまだマイナーな世界ではありますが、それでも直感的な日本人の感性と合っていたのか、今では少なくとも日本ではそれなりに認知されているとも言えます。
しかし、考えてみれば、最初はじめて日本にオーラソーマが入ってきた頃は、誰一人知る人もいないまったく海の物とも山の物ともつかぬものだったはずですよね。
そのころの日本に、このオーラソーマを持ち込んでこようとする方々には、ちょっと普通とは違うバイアスがかかっていたのではないでしょうか。(^_-)
常識を超えるための強い思い込みと、瞬間風速的な強烈なエネルギーが起こっていなければ、そんなことをしようとは思わなかったかもしれません。
東京の表参道にオーラソーマショールームを出店した野田幸子さんを突き動かしていたのも、そのような特別なエネルギーだったのではないでしょうか。
では、野田さんの「新コミュニティサロン『ラ・ポール』開設に向けて」の記事からそのあたりに触れた部分をご紹介しましょう。
1995年に、日本にオーラソーマを導入してから、早くも来年で20年を迎えようとしている。
この20年という月日のなかで、私とオーラソーマとの関わり、弊社IMAの事業形態もさまざまに変化していった。
1995年、私自身オーラソーマに出会ったときは、それがなんであるのか、なにをするものなのかも分からなかった。
ただただ色がきれいで、それを自分の目で見たいだけでイギリスへ向かったのかもしれない。
私の最初のティーチャーであるフィリパ・メリベール先生は繊細で、なにか特別な雰囲気を持つ長身の女性だった。
講義の内容はあまり理解できなかったにも関わらず、コース滞在中に同じ講義を日本に来てやってほしいと尋ねた。
その承諾を得るために会ったのが、オーラソーマ社代表のマイク・ブース氏であった。
それから、3 ヶ月後には来日していただき、日本で初めてオーラソーマカラーケアシステムのファウンデーションコース開催にこぎつけた。
今から考えると、それはヴィッキー・ウォールの導きとしか思えない。
なぜなら、なにもわかっていない私をすぐさまイギリスへと導き、そして間もなく日本にオーラソーマを紹介するようになるのだから。
だからといって最初からすべてが上手くいったわけではない。
占い? 宗教? 当時、オウム真理教の事件が社会問題になっていたので、なかなか理解されるのが難しい面もあった。
なによりも、私自身が理解していないのだから。
30代の怖いものなしの勢いと、色の意味と心理的効果を前面に打ちだして動いていった。
最初は、このきれいな色の組み合わせのボトルを、多くの人に見せてあげたい。
オーラソーマを広げたい一心だった。
そのころはスタッフも私とアルバイトのひとりだけだった。
何度かコース開催を続けていくうちに、コンサルテーションができる方たちは増えていったが、その方たちの活躍の場がない。
そこで、人目につく場所にオーラソーマの専門店を開こうと思ったことと、オーラソーマを学んだ方たちの組織を作ろうと考えた。
それが、i-making表参道店とAS I ACT Japan だった。
i-making では、オーラソーマのプロダクツと、カラーセラピーにまつわる商品の取り扱いとコンサルテーションを行い、AS I ACT Japan では、テキストの翻訳や本校とのやり取りを中心に、オーラソーマカラーケアシステムを行うプラクティショナーやティーチャーをサポートする業務を行っていた。
『リビング・エナジー』Vol.9(p44)
【講義の内容はあまり理解できなかったにも関わらず、コース滞在中に同じ講義を日本に来てやってほしいと尋ねた】
【それから、3ヶ月後には来日していただき、日本で初めてオーラソーマカラーケアシステムのファウンデーションコース開催にこぎつけた】
オーラソーマが日本に普及していく過程では、こんなことが起こっていた時代もあったのですね。
pari 記