瞑想について その4
静かにしていることだと思われがちです。
ところが、「ただサイレンスでいることは、とても害をおよぼすことになる」と、OSHO が語っているのを聞いて、驚いたことがあります。
ただ、サイレンス(黙って沈黙のなかにいる)にいるということを続けることで、いかに多くの人たちが、鈍感で、人生を棒に振ってしまっているかということを、いくつかの例をジョークを交えて話したあと、「アウェアネス」(気づき)がそこになければならない、と彼は言います。
アウェアネスがそこにあれば、そのサイレンス(沈黙)はとてもすばらしいものになる、と。
そして、実は沈黙しようとする必要はない、ともいいます。 なぜなら、気づきがあれば、自然に沈黙はついてくるから、と。
そして、瞑想とはテクニックに過ぎず、それは本当のことが起こる準備をする地ならしでしかない、とも言います。
20年前のインドにあった彼の瞑想リゾートでは、その地ならしのためのありとあらゆる瞑想が紹介され、実験されていました。
OSHO は朝晩の講話で、さまざまな瞑想について語り、一日中さまざまな瞑想の機会が提供され、そして西洋からのセラピーのテクニックも取り入れられていました。
セラピーなどで有名なアメリカのエサレン研究所などからも、最先端の、トップのセラピストたちが集まり、西洋人を相手に、セラピーなどが行われていました。
それは現代の文明では、そのようなカタルシスのようなことも瞑想の準備には必要だという理解に基づくものでした。
OSHO の瞑想のテクニックには、静かに坐る前の準備として、動きの瞑想が取り入れられています。
そうすることで、努力することなく、自然と静かに坐る準備が整うからです。
過去、鎌倉での瞑想お茶会では、その瞑想リゾートで毎日4時15分から行われていた、クンダリーニ瞑想というメソッドを紹介しました。
この瞑想法では、音楽に合わせ、身体を振動させていきます。
クンダリーニ瞑想のなかで使われている、このシェイクすることだけで難病さえも治してしまうという療法がありますが、実は野口整体の活元運動にも同じような要素があります。
野口晴哉さんが、このようなことを書かれています。
「生は元来、活発に動いてとまることなきが本然の相である。
その動きが滞ったり偏ったりした時、心を虚にし、裡よりの本来の動きに動いて、しばらく人為の動きを捨て、自然の動きに動くことが活元運動なのである。
体操のつもりで行っている人も、健康法のつもりでやっている人もあるだろうが、どのように使ったとしても、活元運動が自然の動きを動くことを会して行うなら、それで良い。
作為を捨て、無為の動きに任せて自然に帰るなら、生は輝くのである。
工夫の為になすな、知識で自然の動きを妨げるな」
クンダリーニ瞑想のシェイクは活元運動ではありませんが、「作為を捨て、無為の動きに任せて自然に帰る」という原理は共通するところがあり、そういうちょっとしたシェイクには、そのような身体の英知を引きだす作用も準備されているのですね。
このクンダリー二瞑想に興味のある方は瞑想CDがありますので、自宅でも気軽に行うことができます。
興味のある方は、クンダリーニ瞑想CDでやってみてくださいね。
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http://artbeing.com/cd_book/sound/OCD02.html
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