物質のなかの永遠(クシュブ・ドイッチマン)

鉱物が生きるであろう時間の無変化の長さを想像すると、人間が生きて感じている人生の時間はなんと忙しないことかとも思われます。

何を考えるということもなく、ただそこに在る。

忙しない変化を楽しむはずの人間が、ときにはその無変化の鉱物のあり方を羨むような気持ちになることがないとは言えません。

そして自分が生きている仮初の短い時間のドラマが、ただの一瞬の夢に過ぎなかったことを思い出すのかもしれませんね。

龍安寺の石庭に触れたドイツ人女性クシュブ・ドイッチマンさんの感嘆と感動が伝わってくるかのようです。

ではクシュブ・ドイッチマンさんの記事「日本の禅庭園」から、その一節をご紹介しましょう。


■ 三番目の原理は物質のなかの永遠

岩石は長い時間、地球の進化のなかで、自然の力によって形作られました。
それらの波動は非常にゆっくりとしており、記憶の蓄積は太古に遡ります。
したがって、このエネルギーを使うことで、禅庭園の作者は太古の地球の記
憶を利用しており、それが庭全体とより大きな近隣地域のエネルギーの
織物に、鍼灸の針のように働く効果をもたらしているのです。

ですから、禅庭園では岩は非常に重要な役割を演じています。
古典的な枯(水がない)山水には、五つの造形された岩が含まれています。
二つの垂直の岩と、三つの水平の岩です。
それらは造形された岩であり、横たわる牡牛の岩と、弓型の岩と、支柱とな
る岩です。

ときには、岩の集団のなかで、ひとつの岩がまったく見えないことがありま
すが、そのグループ全体にとっては、その石の存在は不可欠なのです。
ここでも焦点は、例えばルネッサンス式庭園のように部分にあるのではなく、
全体にあるのです。

そして、訪問者が歩く踏み石は、茶室へとつながっており、そこまでの通路
を示すように意図されています。

最も有名な禅庭園は、京都の龍安寺の石庭です。

        龍安寺石庭

この庭は長方形をしており、片側に庭を見ることができる木の廊下があって、
訪問者はそこで休憩し、瞑想し、観察することができます。

この庭には約五百年の歴史があり、熊手で整えられた玉砂利の上に、15個
の岩が置かれています。
この砂利は何世紀にもわたって、まったく同じ模様が描かれています。
当初は、この庭にはいっさい植物がありませんでしたが、時を経て、岩は苔
で覆われていきました。

その庭に構成された単純さと完璧さを観察することで、見る者の内面に沈黙
と平安の空間が生みだされるのです。

禅とは、なんという信じがたい叡智なのでしょう!
実は、あなたがどこに入っていくのかは問題ではありません。
(庭造りや料理でも、お茶を飲むことでも、花を活けることでも…)どこへ
行こうと、結果はつねに同じです。
あなたが何をするかが問題なのではなく、むしろそれを、どのような心のあ
り方でやるのかが問題であるように…そしてもう一歩深めるなら、すること
は在ることへと変容し、そしてさらにより深く、そしてすべては…消え去る
のです。

あるいは、それを禅の公案「古池や蛙飛び込む水の音」と言ってもかまいま
せん。

「禅では、あなたはどこからも来ないし、どこへも行かない。
 あなたはただここに今いるだけだ。
 あなたの意識は鏡にすぎない。
 あなたは現れないし、あなたは消えない。
 物事が現れては消えていく。
 あなたは若くなり、あなたは年老いる。
 あなたは生きており、あなたは死んでいる。
 これらの状態はすべて意識という永遠の池のなかの反映にすぎない」 
 
  「日本の禅庭園」より
  『リビング・エナジー』Vol.8(p98-99)



【あなたはどこからも来ないし、どこへも行かない。
 あなたはただここに今いるだけだ。
 あなたの意識は鏡にすぎない。
 あなたは現れないし、あなたは消えない。
 物事が現れては消えていく。】

ほんとですねぇ。

pari 記