ギフトとチャレンジ(2):「天使の夢」「人間の体験」

「オーラソーマ」「カラーローズ」をちょっと部外者的な立場から眺めて、自由な連想を試みる随想シリーズです。^^;

ちょっと理屈っぽいですが、常識だけでお付き合いいただければ、案外、面白がっていただけるかもしれません。

前回、当初のHPの各イクイリブリアムボトルの説明ページでは、現在・・・

・1本目に選ばれたときの性格的側面:
・2本目に選ばれたときに、チャレンジとなる性格的側面:

と表示されているタイトルは、

・性格の肯定的側面:
・課題となる性格の側面:

という表現になっていた、ということをお話ししていたんですね。

それはひとりの人間の性格特徴と考えれば、あまりにも極端に対極的でした。

しかしまた、各ボトルに関するこの「肯定的側面」「課題的側面」の描写には、なぜか現実の人間にもありそうな矛盾の雰囲気も感じました。

正反対といえるほどに対極的なのに、どこか人間くさい。

この人格的な統合性はどこからくるのか……? (-_-;)

というところで終わったんでした。

で、その「肯定的側面」「課題的側面」の“人間くささ”ですが、結局、それはある同一の心理傾向にまつわる対極だからだと思うんです。

それは正反対というよりは、むしろ、ある種の観点、あるフォーカスに関する“裏表”とでも言ったらいいでしょうか。

たとえば、天に憧れて、いつも天上の平安のみを求めて上を向いている人が、じっさいには足許にある穴にはまって転けてしまったり、普段の地上の生活では恐くて何ひとつ手を出せない、とか。(^_-)

あるいは、地上での豊かで着実な生涯を求めていた人が、じっさいには、自分が求める贅沢と自分のじっさいの無能とのギャップで苦しむとか。

あるいは、圧倒的な愛と情熱とパワーと魅力を願った人が、じっさいには力の誤用や無責任の結果に苦しむとか。

もしかすると、熟練したティーチャーの方なら、上のコメントを聞いただけで、それがどのボトルを描写したコメントかがわかるかもしれませんね。

ある意味で、各ボトルの「肯定的側面」「課題的側面」には、固有の人格を想像させるような“人間くささ”が感じられて当然なのかもしれません。

各ボトルの「肯定的側面」「課題的側面」は、けっして偶発的で“気まぐれ”な組み合わせでないようです。

個々の組み合わせは、いわば必然的で不可避的な印象を与えます。

あれほど極端に正反対なのに、一方では、なぜそういう印象になるのか?

いろいろ全体を眺めてみると、ははーん、と見当がついてきます。

どうやらそれは、何か特定の“能力”や“天賦”を願うことによって発生した人格的“ひずみ”、“偏向”、つまりは「肯定的側面」「課題的側面」にすぎないようなんです。

見当がついてみれば、そんな当たり前のこと……とも思われます。^^;

以前のボトル説明で「肯定的側面」「課題的側面」と述べられていたのは、全体のなかのある側面、要するに、ある「ギフト」を願った。


そのことによって、結果的に現れた二つの側面のようなのです。

よく「長所」「短所」というのは同じものだ、と聞くことがあります。

たしかに、ある方向に突出した能力をもっている人格には、その裏側に大きな欠落部分があって当然なのかもしれません。

それはひとつの資質を、たんに視点を変えて描写しているにすぎないとも言えるわけですから。

あまりにも崇高な天上の美に憧れるようなタイプの方は、一方では、この世の汚さには耐えられないでしょうし、たとえ口には出さなくても、人の醜さにはきわめて峻厳かもしれません。

非常に現世に着地した着実な聡明さを発揮できる方は、一方では、ときに状況に過激な反応を示したり、非常に大きな問題を隠し持っていたりするかもしれません。

そんないろいろのイクイリブリアムボトルの「肯定的側面」「課題的側面」を叙述する対極的描写のペアを眺めているうちに……。

あるとき、ふと、この両側面の描写の背後から、一対の「タイトル」が浮上してくるような気がしました。

それは……、

「天使の願い」
「人間の経験」

というタイトルでした。

ここで天使と呼んでいるのは、人間の体験に入ってくる前の私たちのことだと思えば、当たらずといえども遠からずかもしれません。

天使は、その“無経験”と“善意”のすべてを賭けて壮大な夢を描きます。


たとえば、グリーン/グリーンの願いはこんなふうだったかもしれません。

──────────────────
 天使の願い:
 支配することなく人々を導き、誰にも成長できるスペースを与えてやりたい。
 ハートを捧げて、全人類が抱える問題に配慮できる人間になろう。
 事態を明瞭に認識して、実際に行動に移せる人でありたいものだ。
 喪失の体験の中でさえ、何かを学べる人だ。
 人には良い聞き手となり、自分では着実にワークを進めよう。
 正直で、真の意味で自立し、自らの運命に調和していこう。
 つねに創造性に満ちたアイディアを実現し、自然と深いつながりを保とう。
──────────────────

……と。(-_-)

ところがいったんこの物理次元に誕生してみると、この地上では万事なかなか思うようには運びません。

天使として思い描いた壮大な夢は、惨めな「人間の経験」に変わります。

──────────────────
 人間の経験:
 ついつい過去や未来にこだわってしまう。知的には間違っていないはず。
 どうも地球とは馬が合わない。スペースが欲しい、気晴らしの余裕なんて。
 これでは将来の見通しが立たない。いつの間にか自然や人生のリズムから離れてしまった。これ以上どう霊的に進歩しろって言うんだ。
──────────────────

と……。

いえ、これは、皮肉でもギャグでもないつもりです。

真実というのはじつに身近で、しかも逆説に満ちたもののようですから。

いろいろなボトルの

・「性格の肯定的側面:」

の叙述を読むと、もしかして自分はこのタイプなんじゃないか (@_@)、なんて妄想を膨らませたりします。(*^_^*)

ところが、その同じボトルの

・「課題となる性格の側面:」

を読むと、いやいや飛んでもない (>_<)、自分はこれほどひどくない、とそのボトルに背を向けます。

そんなことを何度もやっているうちに、だんだん、なにやら少し様子が見えて来たような気にもなります。

そうか……何を選んでも、どんなことを願っても……、そうか……と。(-_-;)

だって、「性格の肯定的側面」にどんなに素晴らしいことが書いてあったって、そのボトルにもちゃんと「課題となる性格の側面」があることが、わかってきますから……。

そのことに関して、じつに、例外がない。

それだけとっても、「オーラソーマ」はとても素晴らしい“洞察のツール”なのかもしれません。

花の香りや色が蜜蜂を呼ぶように、それぞれのイクイリブリアムボトルが、「色の言語」で人を惹きつけるとき……。

それは、鉱物界と植物界から選出された代表たちが、「ギフト」を願い「チャレンジ」に傷ついた“天使”たちに癒しの手を差し伸べているのかもしれません。

鉱物界と植物界の代表選手たちは、「色の言語」という宇宙の普遍言語を介して、わたしたち人間の内部に眠る意識の何かをヒットし惹きつけます。

そのとき、引き寄せる者と、引き寄せられる者のあいだに介在するのが色という共通の要素、つまり同種の色彩属性なのでしょう。

たとえば、文明化した現代社会では、大都会に住む人達は日常的に自然に接することは少なくなりました。

しかし休日などに都会の喧騒を逃れ、久しぶりに緑の溢れる自然のなかに入ると、改めてその空気の美味しさと、広々とした空間の気持ちよさ、開放性に、命の洗濯をしたような気がするのではないでしょうか。


それは植物と人間が、同じ「グリーン」という色彩言語を介して互いを引き寄せ合い、癒やし合っているとも言えるでしょう。

なにしろ植物が放出する酸素は、まさに動物種人間の呼吸が求めているものであり、同様に人間が呼吸で吐き出す二酸化炭素は、まさに植物が呼吸で求めているものなのですから。

オーラソーマのボトルたちが提供する癒やしとは、言ってみれば、植物界と鉱物界の仲間たちが、自分たちに縁のある動物界の仲間たちにサポートの手を差し伸べてくれるのかもしれません。

ある特定の色にまつわる不調和のゆえに苦しんでいる動物界の有機体を、それと同種の色にまつわる植物界や鉱物界の存在たちが引き寄せるとき、そこにあるバランスの回復が起こり、癒しが起こるのかもしれません。

植物と動物の呼吸が互いに補い合っているのと同じように、引かれ合うものの間に癒しが起こるのかもしれませんね。

……。

いつもお断りしているとおり、これは「オーラソーマ」で認定された見解というわけではありません。

今回は、イクイリブリアムボトルの“人格的”描写の不思議さに触発された、まったく自由な立場からの連想でした。

お付き合いいただき、ありがとうございました。<(_ _)>

pari 記(初出『オーラソーマ通信』の記事から編集)

 

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