聖なる不満

聖なる不満
『オーラソーマ 奇跡のカラーヒーリング』:「5 薬屋」から                         ヴィッキー・ウォール
        人生と物語というのはとても共通点があると思いませんか?
人が物語を作ろうとするとき、あまり退屈なだけの物語を作ろうとはしません。
それでは物語を作る意味がないからです。
だから物語には必ず波乱があり、葛藤があり、たまにそのなかにしばしの寛ぎの瞬間があったりするわけです。
いや、「自分の人生など何の波乱もなくて、ただただ退屈なだけだ」と言える人がいたら、ちょっとお目にかかってみたいような感じもあります。(^^;)
その方は途方もない“大物”かもしれませんね。
人生には必ず波乱の時があり、何らかの転機があるものです。
それが青天の霹靂のように外的条件から起こるように見えることもあり、自分の内部から兆すように見える時もあります。
ヴィッキーさんの場合は、裕福になり安寧のなかで寛ぐようになったとき、彼女の内部からなぜかこのままではいけない、このままではいられない、というある種の感覚が起こってきたようです。
ヴィッキーさんの人生の物語が新しい局面に移ることを求めていたのでしょうね。
ヴィッキーさんの物語は、まだまだそのまま落ち着くことは許されず、新たに展開する場面が待っているのでしょう。
        ——————————————————————– 店のお客さんたちはやがて、ただ薬を調合するだけではない、私たちの愛と思いやりに気づき、私たちを信頼してくれるようになり、店はどんどん繁盛していきました。 私たちは、棚から下ろすだけの人工的で値段の高い銘柄品より、より安くて自然な製品を勧め、必要とあらば、その場で調合したのです。 こんなスタイルの昔ながらの薬屋が、今ではもう見られなくなったのは、本当に残念なことです。 そこで人は、聴いてもらう必要があるとき、薬剤師と自分の問題を語ることができたのに。
私たちは裕福になっていき、それとともに自己満足に陥る危険性が出てきました。 時として、夜の瞑想の中で、深みへ深みへと呼ばれるとき、私の一部は、聖なる不満としか表現のしようのないものを感じました。 私の中の何かが、今は単に学び、拡大し、消化吸収をする時期にすぎず、こうして新しく手に入れた豊かさゆえに、物質的な利益や安全にしがみつこうとするのを、何よりも戒めていたのです。 こうした状況はどうやら、私の一生を通じて繰り返し現れるパターンのようです。
薬局での勤めのかたわら、私はキロポディ(足治療)の世界に足を踏み入れました。 それは、それまでに私がしてきたことの自然な発展でした。 そこでの道具は、私の愛を伝える手と、患者との心の通い合いと思いやりだけ。 最初は手堅く始めようと、薬局で開業しましたが、その後、いつもの例に違わず、成功の真っただ中で天のひと突きがやってきて、五〇年代半ばには、バッキンガムシャーの美しい村グレート・ミッセンデンへと移ることになりました。 そしてそこでもまた、私は何のつても持たないまま、新顔の開業医として奮闘することを余儀なくされ、信念を試されたのです。
      『オーラソーマ 奇跡のカラーヒーリング』(p46-47)
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人生の物語は、けっして先の展開を知ることはできません。
にも関わらず、人間はその展開を自分が招いたと思わざるをえないようになっているんでしょうね。
不思議ですね。
pari 記
       
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