父のクラブ

ヴィッキーさんは若くして家を離れてからは、大好きだったお父さんと二度と再び会うことはありませんでした。

それは厳格なユダヤ教徒だった父親の指示で、家を出たヴィッキーさんが家の敷居をまたぐことは二度と許されなかったからだそうです。

でも、そのことはヴィッキーさんの父親に対する思いを少しも傷つけなかったようです。
二度と会えなかった父親への思慕は、幼いころの父親に対する尊敬を記憶のなかで一層純化していったようです。

記憶のなかのお父さんの思い出は、ヴィッキーさんにとってはまさにその後の人生を生きていくための宝物だったのではないでしょうか。

ここで回想されているお父さんの姿は、ほとんど神格化された威厳と優雅さを備えているようにさえ感じられます。
まるで映画の一場面を見るような感じですね。


次なる私たちの目的地は、父のクラブです
そこで私は、背の高いスツールに座らされ、ウエイターとも店員ともつかない人に面倒を見てもらうことになっていました。
週に一度の大きな贅沢であるチョコレートバーが私のお相手父は着ているものを汚さないようにと私の首に大きな白いハンカチを巻きつけたあと、女子供立ち入り禁止のクラブの奥へと、おもむろに消えていくのでした
私は子供ながらに、その中で何が行われているのか、あらゆる魅惑的な想像を繰り広げたものです。
けれども、ある日、立ち入りを許された兄の一人が教えてくれたところによると、何のことはない、そこで皆はチェスをしていたのでした!


やがて、父は姿を現し、私の口の周りのチョコレートを拭いてくれます。

そしていよいよ楽しみは佳境に入っていきます。
私たちはいつもそれから、とても高級なフルーツショップに寄って、何かを買うことになっていました
そこには、ガラスの長いビンに入った輪切りのパイナップルがあって、父はいつも、そのすばらしい香りの一切れを私にくれました。


私はいつも、お目当てのパイナップルが長い二股のフォークでビンから取り出される様子にうっとり見入りながら、それが手元に届くまで、途中で地面に落ちたりしませんようにと、心のなかで祈ったものでした。

そうした悲劇は一度起こったのですが、マナーにきちょうめんな父は、黙ってフォークに残った切れ端で我慢するように、と言い渡したのです。

私は立ったまま、みずみずしいその果物を夢中で味わいます。
その間に父は、店の中で念入りに品定めをします。
私は父がお金を払うのを、一度も目にしたことがありません
五歳か六歳という年齢では、つけで物を買うなど知るよしもなし、私は父を感嘆の目で眺め、まるで神のようだと思いました。
というのも、欲しいものを何でも好きなように持っていくように見えたからです。

実際、父が聖書の「地のすべての果実は、神のものである」というくだりを読んでくれたとき、私はその通りだ、と思ったものでした。

『オーラソーマ 奇跡のカラーヒーリング』(p17-18)



「地のすべての果実は、神のものである」……。

このような深い真理は、子供の心にしか届かないのかもしれません。
生まれた環境を無条件に受け入れる子供の能力とは、そのようなものなのですね。

人生というのはそのようにできているのですね。

pari 記
       

 

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