アートと見る者との間の対話
「あらゆるものにアートを見る」から シデナ・マリークラーク
芸術作品とその鑑賞者との間の関係は、世界と人間との関係と似たところがあるようです。
つまり、芸術作品も世界も“それ自体が客観的な一つの意味として”存在しているのではない、ということです。
もしそうだったら、この世に住む誰もが、同じ世界を体験するでしょうね。
でも、そんなことはありえません。
極端に言うなら、この世を地獄のように体験する人もいれば、天国のように体験する人もいるわけです。
例えばの話、初めて東京ディズニーランドに連れて来られた小学生は、その場所をそれこそ天国のような世界として味わうかもしれません。
でもその子の隣のおじいちゃんは、せがまれてその子を連れてきてはやったものの、その場の賑やかさと派手さと騒音に、ただただ嫌悪しか感じられないかもしれないのです。
まあ、確かにそれは、極端な例ではありますが、でもこの世に客観的に固有の意味を担って存在しているものなどありえない、ことの例証にはなります。
つまり、人間は客観的な世界を体験しているのではなく、“世界に対する自分の解釈”を体験しているわけですよね。(^_-)
世界のひとつの写し絵である芸術作品にも、それと同じことが言えるようです。
つまり、作家が生み出した芸術作品は、そこに固有の意味として結晶しているのではなく、鑑賞者の協力を得てはじめて、その鑑賞者に対するその作品の意味と価値を明かし、確立するようなのです。
そのときに、とても主張の強い芸術作品もあれば、とても控え目な芸術作品もあるらしいですよ。
画家のシデナ・マリークラークさんの記事「あらゆるものにアートを見る」から、そのあたりの機微に触れた部分をご紹介しましょう。
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私たちの目によって開かれ、私たちの感性によって明らかにされることを待っている絵が存在します。 それは、特に「幽玄」の感覚を持つような絵です。絵が明らかになっていくだけでなく、同様に私たち自身も明らかになっていきます。
男性的見方でアートを見る傾向が私たちにはあります。 そこになにかを探そうとし、絵からなにかを期待しようとします。 この男性的エネルギーには、インテンションや要求があります。 しかし、私たちが前進し、探求し、決断するためにはこのエネルギーが必要です。 それによって求めるものに到達できます。 しかし、いったん目的を達すれば、この場合で言うと、それは一枚の絵の前に立つことですが、私たちはくつろいで、受容性を開くことができます。 この時点で、女性的観察者が参加する準備ができます。 私が参加という言葉を使うのは、芸術作品を見て、それが与えるものを受取ることは、ひとつの交換だと考えるからです。
アートは鏡です。それはアーティストの表現であり、エネルギー的放出としてはじまります。 彼らの独自のスキルや画材の中で、その形を呈していきます。 この段階で、私たちはアーティストの意図を見て、感じ取ることができます。
しかし、いったんアートがアーティストから手放されて、独り立ちすると、その作品はさらに深い層を表します。 アートと、それを見る者との間に対話が可能になり、その対話の中で、アートはそれ自体が持つ深みを、私たちの中に深く映しだすことができるのです。 しかし、それは私たちの感性に大きく左右されます。 あなたがひとつの芸術作品を鑑賞して、その作品に感銘したあと、「もう、この作品はじゅうぶん見たから、次の作品へ移ろう」と思うときがあります。 しかし、あなたがもしその瞬間に待つことをするなら、そこにはまだ、なにかがあるかもしれません。
そこに現れようと待っている層があることがよくあります。 すぐにそれが現れることもあれば、ときには絵や彫刻によってはもっと時間がかかり、それ自体が姿を現すのに控えめなものもあります。 その宝が深く隠されているのです。 また、あえて隠されている場合もあります。 アートにおけるこういった美の質は、特に日本でよく見られます。
『リビング・エナジー』Vol.6(p64-65) ————————————————————-
なるほど……。
そう聴けば、日本画の世界は西欧の絵画に比べれば、相対的にとても静かな世界が多いのかもしれませんね。
pari 記
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