20%のエネルギーで生きていても

20%のエネルギーで生きていても

「サミュエル102」から  マイク・ブース

       

わたしたちは自分の内面をそのまま表現してはいませんよね。

赤ん坊のころはもちろん内面をそのまま表現していました。

内面のそのままの表現を妨げるような要因がなかったからです。

しかし、赤ん坊のその状態がいつまでもつづかないのはご存知のとおりです。

まわりからさまざまに期待されたり、激励されたり、あるいはある種の行動を止められたりするうちに、だんだん自分の役割を理解するようになります。

そこで起こっている物語を知り、いわゆる“自分”が形成されはじめるのです。

それ以降、わたしたちは“自分”という人格に沿って内面を表現することを覚えます。

もっとも、その“自分”は生きていく個々の場面でつねに修正され再構成されるので、誰に対しても同じ“自分”というわけではなく、相手に応じて使い分けられる“自分”でもあります。

これは良くも悪くも人生を生きる上で起こらざるをえませんよね。

そうでなくては、一人前の社会人として生きることはできませんから。(^^;)

普通「成長」と呼ばれるこの人格形成は、必然的に自分の内面をありのままには表現しないという側面を伴います。

内面にあるエネルギーを表現する過程に、つねに自分という一種の“検閲”が介入するということです。

いつもそのままは表現されない内面のエネルギーは、じょじょに出力を下げる可能性がありそうです。

つまり大人は、少なくとも赤ん坊に比べると、かなり出力を下げて生きていそうです。

それは仕方ありませんよね。

いつも最大限の出力で生きていたのでは、身がもちません。(*^_^*)

と、すくなるともわたしたちは思っています。

しかし、それではこの人生を生きている意義を発揮できない、とマイク・ブース氏は言います。

いったい、どういうことなのか、ご本人から説明していただきましょう。

       

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私たちは、異なった視点から生きることを要求されています。
これはどういう意味でしょうか?


私たちは現時点では、自分のエネルギータンクで、ほんのわずかの燃料だけを使って生きています。


たぶん私たちは、十全に生きた場合の20%ほどのエネルギーで生きているでしょう


私たちに要求されているのは、自分自身を光の存在へと変容することです。


私は信じていますが、誰もが、歩きながら、その手や肉体から光を発することが可能です。
これについて、どうやって自分自身を小さな光の存在にするかについて、私たちは目を向ける必要があります。


私たちがもっと力を発揮して、オーラソーマがよりよい方向へと示しているもの、光の存在へ向かう方向性を示しているものへと向かい、物質的な存在としての自分を強化せずに、物質的な形体の中に宿る光の存在となれば、より多くのことが変容し、物質性という外皮に抑えらなくなり、そこに留まる必要もなくなるでしょう。


サミエルは、生においての経験全体を救うためにあります。

 

http://artbeing.com/aura-soma/equi/B102.html


私たちは、自分のエネルギータンクでもっと力いっぱい燃料を使い、精一杯生への情熱を燃やしながら生を生きていけるようになるでしょう。


それこそが、サミエルと出会うことによって生まれることです。

 

十全に生きた場合の20%のエネルギーで生きていても、あなたがここにいるための意義を達成できません。


そして、あなたが無理やり推し進めることはできません。


あなたにできるのは、ただ自分があるがままの姿であるのを許すことだけです。
自分にあるがままの姿であるのを許せば、生のエネルギーは、解き放たれ、あなたの中を流れます。


その時点で起こるのが、100%全体のエネルギーと、そこから80%減らされた20%のエネルギーとの違いです。
エネルギーはどうやって減ってしまうのでしょうか?


物質性にとらわれること、安全を確保するための心配、内側に潜む恐怖の難しさ、これらすべてが、エネルギーを本来のものから奪い去っています。


潜在意識と無意識のマインドでエネルギーは奪い取られ、生への力が吸収されてしまいます。


十全に生きること、全体としての生を生きること、もっとダイナミックな観点で生きることです。


もし、私たちが自分自身のありのままの姿でいられれば、自分のエネルギータンクの燃料の力を十分発揮できるでしょう。


瞑想の役わりのひとつとして、神経症的、精神病的状態を超えること、内側にある安らぎの場所へ向かうことがあります。


エネルギーが、神経のパターンや神経エネルギーへと転化されなけば、私たちはもっとたくさんのエネルギーを発揮できるはずです。


瞑想的な状態へはいることは、そういった神経症的、精神病的パターンと関わりあいながらくつろぐことでもあります。


瞑想において、根本的に、反動として起こることですが、頭の中でのおしゃべりの流れのなかで、神経症的、精神病的状態がはっきりと明らかになります。


頭のなかに、この状態が存在しているのです。


そこから抜け出すにはどうしたらいいでしょうか?


瞑想的なアプローチへ、内なる安らぎへ向かいましょう。
内なる安らぎを見出すことによって、私たちは内なる喜び、そしてその安らぎのなかにある知恵を見出します。

                
『リビング・エナジー』Vol.5(p107-108)
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【物質性にとらわれること、安全を確保するための心配、内側に潜む恐怖の難しさ、これらすべてが、エネルギーを本来のものから奪い去っています】

【エネルギーが、神経のパターンや神経エネルギーへと転化されなけば、私たちはもっとたくさんのエネルギーを発揮できるはずです】

そういうことがあるんですね。

pari 記

 

 



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