内なる安らぎへ マイク・ブース
現在が大きなサイクルの変わり目であるらしい、ということはさまざまな場所で耳にします。
これまでの地上とはまるで別世界のような、明るい矛盾のない世界が来るのだというような噂話もあります。
そうかもしれませんし、そうでないかもしれませんが、現象世界は大なり小なり、いつも変化しているんですよね。
そして、その変化のなかには“究極の相”というものがありえないことも直感的にわかります。
だって、現象世界にもし“究極の相”というものがありうるのなら、え、じゃ、なんで最初からそうでないの (?_?)、ってことになりますものね。(^_-)
人生にもしゴールがあるのだったら、最初からその“黄金郷”だか“天国”だかが現象していたらいいじゃない。
なんでそんな、ややこしい、そして面倒くさい遠回りが必要なの (?_?)、ってことになりますよね。
それに、たとえば、もし現象世界に“究極の相”というものがあったら、それはそこからまた変化することができるんでしょうか?
だって、もしそこからまた変化が可能なのだったら、それは“究極の相”ではなかったことになっちゃいますものね。(^^;)
かと言って、もしその“究極の相”がそこから変化しなかったら、その世界は現象できないでしょう。
ということは、現象のなかの“究極の相”とは“死の世界”を意味するのか、それとも“空無”のことなのか、とかなんとか、疑問や矛盾が続出してきます。(*^_^*)
なんやかんや考えると、現象世界のなかに“究極の相”を考えるのは、やはりちょっと無理なようです。
でもじつは、論理的には、ここにもうひとつ別の可能性があります。
それは、じつは今この瞬間は、現象の“究極の相”なのだという可能性です。(*^_^*)
つまり、あらゆる瞬間に現象の“究極の相”が現象している、というわけです。
そして、じつは、とても考えにくいことなのですが、この仮定は論理的には否定できません。
今のこの瞬間は、どこか別の瞬間に至るための“準備”とか“過程”ではなく、まさに、今のこの瞬間のために現象している、というのです。
ま、つまり、すべては、ただの“遊び”みたいな感じですよね。
なかなか、面白いでしょ。(^_-)
ちょっと脱線しちゃいました。(*-_-*)
でもこれから地上世界が素晴らしい世界になっていく、そしてそこに暮らすわれわれも、それに相応しい素晴らしい人達になっていく、という考えもとても楽しいですよね。
そういう希望に向かっての努力は、とても好まれますし。
宇宙のなかのたくさんの力が、そういう不可避的な流れを応援してくれている、といような話もありますし。
そういう希望に溢れた物語のなかを生きるのも、とても嬉しく楽しいことですよね。
そして、そのためにまず必要なのは、あるがままの自分を許し、その存在のなかにゆるんでいくことのようです。
「サミエル102」(ディープオリーブ/ディープマジェンタ) http://aura-soma.co.jp/products/equi/B102.html についての、「マイク・ブースからのさらなる考察」からご紹介しましょう。
——————————————————————– 私たちは、異なった視点から生きることを要求されています。 これはどういう意味でしょうか? 私たちは現時点では、自分のエネルギータンクで、ほんのわずかの燃料だけを使って生きています。 たぶん私たちは、十全に生きた場合の20%ほどのエネルギーで生きているでしょう。 私たちに要求されているのは、自分自身を光の存在へと変容することです。 私は信じていますが、誰もが、歩きながら、その手や肉体から光を発することが可能です。 これについて、どうやって自分自身を小さな光の存在にするかについて、私たちは目を向ける必要があります。 私たちがもっと力を発揮して、オーラソーマがよりよい方向へと示しているもの、光の存在へ向かう方向性を示しているものへと向かい、物質的な存在としての自分を強化せずに、物質的な形体の中に宿る光の存在となれば、より多くのことが変容し、物質性という外皮に抑えらなくなり、そこに留まる必要もなくなるでしょう。 サミエルは、生においての経験全体を救うためにあります。 私たちは、自分のエネルギータンクでもっと力いっぱい燃料を使い、精一杯生への情熱を燃やしながら生を生きていけるようになるでしょう。 それこそが、サミエルと出会うことによって生まれることです。 十全に生きた場合の20%のエネルギーで生きていても、あたがここにいるための意義を達成できません。 そして、あなたが無理やり推し進めることはできません。 あなたにできるのは、ただ自分があるがままの姿であるのを許すことだけです。 自分にあるがままの姿であるのを許せば、生のエネルギーは、解き放たれ、あなたの中を流れます。 その時点で起こるのが、100%全体のエネルギーと、そこから80%減らされた20%のエネルギーとの違いです。 エネルギーはどうやって減ってしまうのでしょうか? 物質性にとらわれること、安全を確保するための心配、内側に潜む恐怖の難しさ、これらすべてが、エネルギーを本来のものから奪い去っています。 潜在意識と無意識のマインドでエネルギーは奪い取られ、生への力が吸収されてしまいます。 十全に生きること、全体としての生を生きること、もっとダイナミックな観点で生きることです。 もし私たちが自分自身のありのままの姿でいられれば、自分のエネルギータンクの燃料の力を十分発揮できるでしょう。 瞑想の役わりのひとつとして、神経症的、精神病的状態を超えること、内側にある安らぎの場所へ向かうことがあります。 エネルギーが、神経のパターンや神経エネルギーへと転化されなけば、私たちはもっとたくさんのエネルギーを発揮できるはずです。 瞑想的な状態へはいることは、そういった神経症的、精神病的パターンと関わりあいながらくつろぐことでもあります。 瞑想において、根本的に、反動として起こることですが、頭の中でのおしゃべりの流れの中で、神経症的、精神病的状態がはっきりと明らかになります。 頭の中に、この状態が存在しているのです。 そこから抜け出すにはどうしたらいいでしょうか? 瞑想的なアプローチへ、内なる安らぎへ向かいましょう。 内なる安らぎを見出すことによって、私たちは内なる喜び、そしてその安らぎの中にある知恵を見出しま す。
『リビング・エナジー』Vol.5(p107-108) ——————————————————————–
なるほど……。
最終的には、今のこの自分に安らいでいくことなんですね。
“今のこの自分”の意味するものが、かならずしもこの身体のことではないかもしれませんが。
pari 記
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