『絶対無の戯れ』    ダンテス・ダイジ

絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジ ¥2,100 Amazon.co.jp
今回は、ちょっと“変わり種”の本をご紹介しましょうかね。 (もしかして、いつもちょっと変わっていたりして。(*^_^*) ) 何が変わっていると言って、まず著者がちょっとした変わり者です。 変わり者と言っても、別に偏屈とかそういう意味じゃなくて、ちょっと例外的な方という意味ですが。 何が例外的か? まず、一つ目は、この方は「禅」と「タントラ・ヨーガ」という二つの求道(ぐどう)の道で奥義に達した方なんです。 たまたま、インドのマスターOshoもタントラ・ヨーガと禅に縁のあるグルですが、この方の場合は禅での解脱が先です。 著者の雨宮第二(だいじ)師は、一九八七年に三七歳で遷化されましたが、とても若い座禅老師で、後にタントラ・ヨーガのグルとなられた異色の導師です。 一七歳で神に目覚め、一八歳で道元直系の只管打座によって身心脱落、大悟徹底。 古神道の大要を体得し、臨済宗において見性を許され、インドでババジ直系のクンダリーニ・ヨガの究極の解脱に達したという、まさに求道の権化のような方です。 そして、二つ目は、この書がこのような導師が書かれた「詩集」だということです。 覚者の語録というのはよくありますし、イスラム教の密教とも言えるスーフィズムの導師ルーミーの語録などは、詩集とも言えるのかもしれません。 でも、この雨宮第二師の『絶対無の戯れ』は、まさに詩人が書いた詩集と言えるだろうと思います。 つまり、雨宮第二師は、覚者であると同時に、通常の意味での詩人でもあるということです。 本書の最初にある「序詞」のなかに、次のような言葉があります。  「言葉の中に冥想はないだろう   しかし冥想の中には   言葉もある
  今・ここで   言葉は神になった」 と。 で、じつは、ここでこの本をご紹介しようと思ったのは、どうしても次の詩をご紹介したかったからです。 わたしにとってそれは、言葉が与えうる最大限の安らぎを与えてくれたものでした。
「だいじょうぶだよ 君は必ず死ぬ」……という詩です。
——————————————————————–  だいじょうぶだよ 君は必ず死ぬ
 だいじょうぶだよ  君は必ず死ぬ  死んだら  あたたかい夜のぬくもりの中で  君と僕は  君と僕とのいのちを  あたためあう  夜闇の森のフクロウも  僕達のいのちだ  フクロウの鳴き声が  静かに  僕たちの瞳をしめらすことだろう
 だいじょうぶだよ  君は必ず死ぬ  死ぬべき君には  もうどのような恐れも無用だ  そして僕達は  時間を忘れた夜明けの  すがすがしい大気を吸い込む  まるで初めて  大気を吸い込んだように  僕達は  夜明けの息吹を感じることだろう
 だいじょうぶだよ  やがて死ぬときが来る  僕達の宇宙ゲームを終わらせて  夢のない夢の眠りに  やすらかに帰る時がくる  初めがないここには  生も死も  初めから夢にすぎなかった
 だいじょうぶだよ  君は必ず死ぬ  さぁ今 君は君自身に帰る  帰っておいで  君自身である  僕自身の胸の中に
 人々は  どういうわけか  死をいみ嫌っていた  だが だいじょうぶだよ  君もやがては死ぬ  死が  君にすべての生命達との  ふれ合いを教えてくれる  だいじょうぶだ  君は死なないのだから  生と死の中をつらぬき  やさしさが  いつも響いていた
                   (p66-69)  
       『絶対無の戯れ』 ——————————————————————–
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また本のイメージがありませんが、マジェンタのなかに黄色で題字が書かれたとても単純な装丁の本です。
pari 記
     
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